ジラード事件は、明治初期のノルマントン号事件を想起させました。教員のストは、私が学校に勤務するようになって、外から見たストと内から体験したストと格差です。 A級戦犯といえば、鬼畜米英を唱えた戦争の指導者です。その人物が釈放され、総理大臣になると、忠犬ポチのように、アメリカの言いなりになる外交を推進 したことに違和感を覚えました。私は、釈放される時、魂を売ったのか、日本を売ったのかと、感じました。こういう人が愛国心を訴えるのですから、不思議な ものです。 2 1956(昭和31)年12月23日、@55石橋湛山内閣が誕生しました。法相に中村梅吉、外相に副総理格で岸信介、蔵相に池田勇人、文相に灘尾弘吉、農相に井出一太郎、通産相に水田三喜男、自治庁長官に田中伊三次、官房長官に石田博英らが就任しました。
1957(昭和32)年1月4日、アメリカ極東軍司令官兼米民政府長官のレムニッツアーは、沖縄軍用地問題に関し、地代一括払いの方針を声明しました。 1月16日、労農党は、社会党との統一を決定しました。
1月17日、社会党大会を開催し、左派が中央執行委員会の過半数を占めました。 1月30日、米兵のジラードは、群馬県相馬が原射撃場で、薬莢拾いの農婦を射殺しました。これをジラード事件といいます。
1月31日、石橋湛山首相は、病気のため、外相の岸信介を首相代理に指定しました。 2月6日、衆議院内閣委員会は、ジラード事件の調査を開始しました。
2月13日、自民党議員らは、建国記念日法案を国会に提出し、衆議院で可決されましたが、審議未了となりました。
2月14日、佐賀県教組は、259人の定員減に反対して、休暇闘争を開始しました。 2月23日、石橋首相は、病気のため、内閣総辞職しました。
2月25日、@56岸信介内閣が誕生しました。法相に中村梅吉、外相に岸信介兼任、蔵相に池田勇人、文相に灘尾弘吉、農相に井出一太郎、通産相に水田三喜男、自治庁長官に田中伊三次、官房長官に石田博英、副総理に石井光次郎らが就任しました。 3 3月9日、岸内閣は、ソ連に核実験中止を申し入れました。 3月15日、参議院は、原水爆禁止決議を採択しました。 3月21日、自民党大会は、岸信介を総裁に選出しました。
4月22日、社会党訪中団長浅沼稲次郎は、中国側と、「台湾政府を認めず、日中国交を回復」という共同コミュニケを発表しました。
4月24日、佐賀県教育委員会は、佐賀県教組の10人を告発し、逮捕されました。不当弾圧反対の全国闘争が組織されました。この闘いを、石川達三は『人間の壁』として小説化しました。
4月26日、岸内閣は、参議院内閣委員会で、「攻撃的核兵器の保有は違憲」との統一見解を発表しました。
4月29日、岸政府は、米政府にネバダの核爆発実験中止を申し入れました。
4月30日、防衛庁設置法改正を公布し、定員を8498人を決定しました。 4 5月3日、岸首相は、伊勢で、「汚職・貧乏・暴力の3悪を追放する」という方針を言明しました。
5月10日、自衛隊法改正を公布して、2航空団増設などを決定しました。
5月16日、日米合同委員会は、「ジラード事件は日本側で裁判をおこなう」と発表しました。
5月20日、岸首相は、東南アジア6カ国訪問に出発しました。これは戦後初の首相のアジア諸国訪問です。岸首相は、各国首脳に、アジア開発基金構想などを提示しました。 5月26日、政貯、参院内闇委員会で「攻撃的核兵器の保有は違憲」との統一見解を発表。5月7岸首相、参院で自衛の範囲なら核保有も合憲と発言、問題化。 5 6月3日、岸首相は、台北で、蒋介石総統と会談し、国府の大陸反攻に同感の意を言明しました。 6月5日、米政府は、アイゼンハワー大統領命令で、沖縄米民政府長官を高等弁務官とすると発表しました。その結果、高等弁務官には、国防長官が選任した現役軍人が就任することになりました。
6月11日、岸首相は、韓国代表部の金祐沢大使と会談し、抑留者相互釈放を実現して、日韓会談再開を図ることで、意見が一致しました。岸首相は、渡米前の釈放を希望しましたが、実現しませんでした。
6月14日、国防会議は、第1次防衛力整備3カ年計画を決定しました。その内容は、陸上18万人・艦艇12万4000トン・航空機1300機を目標にするという初の本格的な軍事力拡充計画でした。
6月16日、岸首相は、訪米に出発しました。
6月17日、那覇市議会は、瀬長亀次郎市長の不信任案を可決しました。 6月18日、瀬長亀次郎市長は、市議会を解散しました。
6月19日、岸首相は、米大統領のアイゼンハワーと会談しました。
6月21日、日米共同声明を発表し、安保条約検討の委員会設置・在日米地上軍の撤退などを決定しました。岸首相は、「日米新時代」を強調しました。
6月27日、立川基地拡張のため、砂川町で強制測量が行われました。 6 7月1日、沖縄の初代高等弁務官にムーア中将が就任しました。
7月8日、立川基地拡張のため、砂川町で強制測量が行われ、反対派は、警官隊と衝突し、学生ら一部が基地内に突入しました。これが砂川闘争です。
7月10日、岸信介首相は、内閣を全面的に改造しました。法相に唐沢俊樹、外相に日商会頭の藤山愛一郎、蔵相に一万田尚登、農相に赤城宗徳、通産相に前 尾繁三郎、郵政相に田中角栄、労相に石田博英、建設相に根本龍太郎、経済企画庁長官に河野一郎、行政管
理庁長官に石井光次郎、国家公安委員長に正力松太 郎、官房長官に愛知揆一らが就任しました。
7月30日、文相の松永東は、小中学校に「道義」に関する独立教科の設置を表明しました。
8月1日、米国防総省は、在日地上戦闘部隊の撤退を発表しました。在日米軍兵力は、1952年末26万人、1957年8月8万7000人、1958年末6万5000人と減少し、しかも、在日米軍は空海軍が中心となりました。
8月4日、那覇市議選挙が行われ、瀬長市長支持派は、不信任決議阻止に必要な3分の1を獲得しました。
8月6日、日米安保委員会が発足しました。
8月9日、総評は、道徳教育反対などを文相に申し入れ、道徳教育時間の特設問題がおこりました。
8月13日、憲法調査会は、社会党委員が空席のまま、第1回会合を開き、会長に高柳賢三が就任しました。自民党17人・緑風会5人・学識経験者17人が出席しましたが、社会党10人は不参加でした。
8月26日、前橋地裁は、ジラード事件の公判を開廷しました。 7 9月10日、文相の松永東は、教員の勤務評定の趣旨徹底を通達しました。
9月14日、文相の松永東は、教育課程審議会に小中学校教育課程改善などを諮問しました。その中で、(1)道徳教育の強化(2)基礎学力・科学技術教育の向上などを示唆しました。
9月14日、藤山愛一郎外相は、アメリカ大使と「日米安保条約の運用は国連憲章に則る」との公文を交換しました。
9月22日、砂川町で、警視庁は、23人を刑事特別法違反で検挙しました。 9月23日、日本は、国連に核実験停止決議案を提出しました。
9月28日、外務省は、「わが外交の近況」を初めて発表しました。これを外交青書といいます。
10月1日、日本は、国連安保理事会非常任理事国に当選しました。 10月4日、インド首相ネルーが来日しました。
10月24日、愛媛県教育委員会は、勤務評定実施を通知しました。 8 11月18日、芹首相は、東南アジア・オセアニア9カ国訪問に出発しました。特に、経済協力や賠償間譲などを協議するためです。
11月19日、前橋地裁は、ジラードに対して懲役3年執行猶予4年の判決を言い渡しました。
11月24日、沖縄のムーア高等弁務官は、地方自治・選挙関係法を布令により改正し、首長の不信任の条件などを緩和しました。
11月25日、那覇市議会は、市長不信任案を可決し、瀬長市長を解任しました。
11月26日、愛媛県教育委員会は、評定書未提出校教員に対する年末手当の支払い停止方針を決定しました。 9 12月4日、文部省は、小中学校教頭を職制化し、職務内容などを規定し、管理職手当支給を開始しました。 12月6日、ジラードは、アメリカに帰国しました。 12月6日、東京で、日ソ通商条約が調印されました。
12月10日、愛媛県教組の勤評闘争でピケに警官が出動しました。
12月17日、岸内閣は、経済審議会の答申により、新長期経済計画を決定しました。その内容は、(1)高度成長政策を継承(2)年率6.5%の経済成長が目というものです。 12月19日、第4回日米安保委員会は、空対空誘導弾サイドワインダーの受け入れを決定しました。
12月20日、全国都道府県教育委員長協議会は、教職員の勤評試案を了承しました。 12月22日、日教組は、勤評闘争を強化し、「非常事態宣言」を発表しました。 12月31日、韓国と抑留者相互釈放・日韓前面会談の再開に関する覚書に調印しました。
この年、なべ底不況が始まりました。 * この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。 ジラード事件 1 ジラード事件は、独立国日本の状況を如実に教えてくれた事件でした。
明治時代に起こったノルマントン号事件によって、日本人は初めて、治外法権を知り、激怒しました。当時の日本の指導者は、条約改正に全力を注ぎました。
ジラード事件によって、日本人は初めて、独立国日本に治外法権があることを知り、激怒しました。当時の日本の指導者、現在の日本の指導者の立場でどうでしょうか。 2 戦後、群馬県相馬が原は、戦前は陸軍が使用し、戦後は米軍に接収され、演習場となりました。
演習後、基地内で、親切な米兵が実弾を発射し、立ち入り禁止の基地内に入って、その薬莢を拾い、生活する地元の人との間で、奇妙な友好関係が形成されて いました。これは戦前からの奇妙な慣習でした。ただ当時の刑事特別法では、基地内に立ち入った場合、懲役1年以下、罰金2000円以下という罰則規定があ りました。 そんな背景の中で、次のような事件が発生しました。
1957年(昭和32年)1月30日、群馬県相馬が原の米軍演習場内の立ち入り禁止の場所で、相馬村議の妻である坂井なかさん(46歳)は、日常的に、 村民と一緒に薬莢を拾っていました。その時、米軍第1騎士団第8連隊第2大隊のジラード3等特技兵(21歳)が坂井なかさんを小銃弾で射殺しました。1発 目は外れ、2発目が致死でした。2発を撃ったということは、偶然でなく、故意といえます。 3 2月2日、この事件はタブー視されていました。しかし、この日、殺人を目撃した人が社会党の茜ヶ久保重光衆 院議員に相談して、発覚しました。それによると、「米兵が”ママさん、だいじょうぶ!”と手招きしたので、坂井なかさんが指示する場所に移動すると、10 メートルの距離から狙撃
した」というものでした。
2月3日、新聞は、これをきっかけに事実を報道しました。
2月4日、米軍の憲兵隊は、ジラードの自供を公表しました。憲兵隊は、「ジラードの行為は、公務遂行中であり、その場合には、日米行政協定により日本の主権は制限され、米側に裁判権がある」と主張しました。
米軍は、日本人は、日米安保条約や日米行政協定の中に、治外法権的な扱いがあることを初めて知り、びっくりすると同時に憤激もしました。
日本の世論に配慮した米側は、「裁判権不行使」という裏技により事態収拾しようとしました。 4 5月18日、アメリカ本国では、ジラードを日本に引き渡すことに反対する運動がおこりました。米連邦地裁は、ジラードの身柄を日本へに引渡すことを禁じました。 7月5日、ジラードは、この騒動の中で、日本人女性と結婚しました。
7月11日、米政府が控訴して、アメリカの最高裁は、米政府の主張を支持する判決を下しました。
8月26日、前橋地裁でジラード事件の公判が開始されました。検察側は、「傷害致死・懲役5年」を求刑しました。
11月19日、前橋地裁は、ジラードに対し、傷害致死で、懲役3年・執行猶予4年の判決を下しました。しかし、検察側は、殺人事件に対して、執行猶予を つける軽い判決にもかかわらず、控訴しませんでした。ジラードは、もちろん控訴しなかった。また、この間に日本人女性と結婚していた。
12月6日、ジラードは、裁判中に結婚した日本人女性を連れて帰国しましたた。 5 これは、ジラード事件に対する前橋地裁の判決です。 「 判 決
合衆国陸軍三等特技兵 ウイリアム・エス・ジラード
右被告人に対する傷害致死被告事件について、当裁判所は、検察官杉本覚一、同大平要、同小縄快郎出席のうえ審理を遂げ、次のとおり判決する。 主 文
被告人を懲役三年に処する。
ただし、この裁判確定の日から四年間右刑の執行を猶予する。 訴訟費用中、証人に支給した分は、すべて被告人の負担とする。 理 由 (罪となるべき事実) (一)被告人の略歴
(二)本件当日午前における演習の状況
被告人は、昭和三二年一月三〇日、群馬県群馬郡相馬村(この村名は本件当時のもので、以下の記載も同様である。)所在キヤンプ・ウエア演習場(榛名山の 東南麓に位置し、面
積約七〇〇万坪に及ぷ旧日本陸軍相馬原演習場。)で行われた右F中隊所属将兵三〇余名による演習に小銃手として参加し、同日午前八時前 後頃、同演習場内相馬村大字広馬場所在御嶽山(米軍による呼称名はシユライン・ヒル、以下括弧中の名称はすべて同趣旨である。)附近から小銃および軽機関 銃の実包射撃による陣地攻撃演習を開始し、その北西方約一キロメートルの距離に在る天神山(チョコレート・ドロップ。)を経て、その北西方約二〇〇メート ルに在る同大字所在物見塚(六五五ヒル、標高約六五五メートル。)を攻撃し、午前一一時過頃ひとまず午前中の演習を終了し、昼食のため物見塚附近で休憩に 入つたのである。
(三)米軍将兵とタマ拾いの関係
そもそも、日米両当局は、かねてより同演習場周辺の要所に立入禁止の標柱および制札を設置するほか、演習実施の際にはその周辺の住民に対し、関係機関を 通じて演習を行う旨予告するとともに、演習当日同演習場周辺など各所から見易い特定の場所に赤旗を掲揚して、危険につき演習場内への立入を禁止する旨警告 し、地元日本国警察当局も演習中一般民衆の立入禁止のため種々の方策を実施し、かつ日米両国の関係機関においてしぱしば協議を開き、その実効をあげるため の対策を講じ、もつて危害の発生を未然に防止するよう努力していたが、同演習場が前記の行政協定第二条にいわゆる合衆国軍隊が使用する施設又は区域である か否かが明らかでないため、同演習場内の立入行為そのものを遽に処罰できなかつたことと、他方銃弾の空薬きようや砲弾の破片などの金属が高価で売れるとこ ろ、米軍当局がこれら物資の処理に殆んど関心を示さなかつたことから、これを拾得して生計の足しにするなどのため、右住民のうち演習場内へ立ち入る者も漸 次に増え、遂には右の警告などをも無視して、演習実施中にもかかわらず場内へ立ち入り、しかもこれらタマ拾いの増加に伴ない、その相互間の競争も 激化し、演習のため行動する将兵につきまとつて拾い集める者も出て来る一方、米軍将兵のうちにも右のタマ拾いに対し好意的に多量の空薬きようを与える者も あつて、タマ拾いに対する日米双方の取締も所期の成果をあげ得ない実状であつた。
(四)本件当日におけるタマ拾いの行状
本件の一月三〇日におけるF中隊の演習に際しても、真ちゆうの小銃弾や軽機関銃弾の空薬きようが拾えるためか、演習開始の頃から少なくとも六、七〇名に 余るタマ拾いが前記警告を冒して演習楊内に立ち入り、ある者は演習中の将兵につきまとい、ある者は散兵線の前方に飛び出し、ある者は射撃直後のやけた軽機 関銃の周囲に群がり、先を争つて空薬きようの拾得に熱中する余り、演習の執行を妨げるとともに、将兵ならびにタマ拾いの身命に危険を招いたため、実包によ る演習を中止させ、午後の演習においては空包を使用することにその予定を変更させてしまう程の状況であつた。 (五)本件当日午後の演習開始より本事件発生に至るまでの経緯
かかる状況の下にF中隊は昼食後午後〇時半過頃より演習を再開し、部隊をモーホン少尉指揮の一隊とジガンテイ少尉指揮の一隊とに二分し、被告人は、モー ホン少尉の隊に属
し、まずモーホン少尉指揮の下に御嶽山附近に至り、同所から行動を開始して物見塚東峯およぴその附近に布陣するジガンテイ少尉の隊を攻撃 し、この攻撃においては匍匐前進し、あるいは空包を撃ちながら進撃し、物見塚東南麓附近に到達した午後一時半頃攻撃を終止して将兵一同物見塚東峯に登り、 続いてジガンテイ少尉の隊が右同様の演習を実施するためモーホン少尉の隊と交代して物見塚を降り、御嶽山に向かい出発したのであるが、その交代に際し、 モーホン少尉はジガンテイ少尉より物見塚の東西両峯の中間に存する鞍部中央附近に存置する軽機関銃一挺およびフイールド・ジヤケツなど数点の管理を引き継 いだのである。当時モーホン少尉指揮下の将兵は右のような攻撃演習を実施した直後であつて、その多くの者はかなり疲労していたため、物見塚東峯頂上附近か ら、その東側斜面上にかけて、モーホン少尉をはじめ各自思い思いの姿態で休憩をとつていたのであるが、同少尉はたまたまその身辺にいた被告人および ビクター.エヌ・ニクル三等特技兵の両名に対し、前記軽機関銃などの警備を命じ、これがため、被告人はニクル三等特技兵とともに右の鞍部におもむき、休憩 を兼ねながら右軽機関銃などの警備の任に就いたのである。たまたま、その頃、物見塚西峯の東側斜面およびその南側麓附近に少なくとも数名以上のタマ拾い が、空薬きようを拾う機会をうかがいながら演習の推移や将兵の挙勤を見守るようにしていたのであるが、ニクル三等特技兵は右の警備に就くや間もなく、身辺 に落ちていた銃弾の空薬きようを拾つて右の鞍部南斜側面下方に投げ棄て始め、この動作を数回繰り返し行ううち、被告人は、右ニクルをして被告人の所在位置 からほど遠くない右の鞍部南側斜面上の個所に空薬きようを投げさせたうえ、前記西峯の東側斜面に待機していたタマ拾いに向かつて手招をしながら声をかけ、 右の空薬きようの投げ棄てられた個所を指したので、タマ拾いの一人が右の斜面上から下り、その場に駆けつけ空薬きようを拾い始めたが、同時に右鞍部の西端 北側附近からもタマ拾いの一人である相馬村大字柏木沢六五四番地の二農業坂井秋吉の妻女なか(明治四三年八月一三日生)が同所に駆けつけ薬きようを拾 得しようとしたところ、被告人ジラードは、同女に対し、鞍部西端附近に在る壕を指さし、「ママサンダイジョウビ タクサン ブラス ステイ」と申し向け、 もつて同女をして右の壕内に空薬きようが多量にあるから拾つてよい旨を理解させ、よつて同女をその壕内におもむかせたうえ(時に午後一時五〇分頃と思われ る。)、所携のMワン小銃(当庁昭和三二年領第八〇号の四)の銃先に装着せる手りゆう弾発射装置(同号の五)に空包小銃弾空薬きよう(同号の三、長さ約六 二・六ミリメートル、底部の直径約一一・九ミリメートル)を、その開口部を奥にして差し込み、空包一発を装てんしたうえ、突如、同女に向かい、「ゲラル へア」と叫ぶとともに右小銃をたずさえたまま前記の壕に向かい走り寄り、もつて同女を威嚇し、これに驚いた坂井なかが壕からはい上り、その北西方へ逃げ延 びようとして走り行くその背後一〇メートル内外の距離から、同女の身辺をねらつて空包を撃ち、この空包のガス圧により前記空薬きようを発射し、もつて同女 に対し暴行を行えたところ、意外にも右空薬きようが同女の左背面第七肋間部に命中し、この射入に因つて同女に、左背部から下行大動脈上部に達する全 長約一一センチメートルの盲管射創に基づく大動脈裂
創を負わせ、右裂創による失血のため、即時、その場において、右坂井なかを落命させたものである。
(弁護人の主張に対する判断)
弁護人は、本件事犯を目し、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定第一七条3(a)(ii)にいわゆる公務執行中の行為から 生じた犯罪であると做し、これを前提とし、本件については合衆国の軍当局が裁判権を行使する第一次の権利を有する旨主張し、たとえ合衆国が日本国の当局に 本件に対する裁判権を行使しない旨を通告しても、この通告は日本国の当局から第一次の権利の放棄の要請によつてその権利を放棄した場合と異なるのであるか ら、右の通告により当然日本国が裁判権を行使する第二次の権利を取得するものとは認められないという趣旨と解される。
しかしながら、本件は、それが公務執行中の行為から生じた犯罪であるか否かにかかわらず、前記行政協定第一七条1(a)および(b)により、日本国の裁 判権と合衆国の軍当局の裁判権とが競合する場合であつて、この場合には同条3の規定が適用されるのであるから、いやしくも合衆国の軍当局が同条3(c)前 段の規定に従い一九五七年五月一七日附書面で目本国の当局に対し、本件に対する刑事裁判権を行使しない旨を通告した以上、合衆国軍当局は本件につき、日本 国内においての裁判権を失つたものと解すべきである。そして右の不行使の通告が他方の国の当局からの要請によつて裁判権を行使する権利を放棄した場合、す なわち同条3(c)後段の規定による場合と異なることは弁護人主張のとおりであるが、右いずれの場合でも合衆国軍当局が日本国内での裁判権を失うという点 は全く同一といわねぱならない。従つて、日本国の裁判所が本件につき行政協定第一七条l(b)により有する裁判権を行使することには、いささかも疑義はな い。従つて本件につき日本国当局と合衆国軍当局とのいずれが裁判権を行使する第一次の権利を有するかは、もはや過去のことであつて、説示する利益を 欠き、従つてまたこの意味からする本件が公務執行中の行為から生じた犯罪であるか否かを判断する必要は少しもないのであるが、他の意味で重要な争点と認め られるので、以下に説示することとする。
すなわち、本件が公務に従事している時間中に、その場所で発生したものであることは、これを認め得ても、上官の命令による軽機関銃などの警備という公務 の遂行とは直接的に何の関係もなく、従つて公務遂行の過程に犯された行為でないことは、判示認定の事実によつて、おのずから諒解すべきであるが、前掲各証 拠からも明らかなとおり、本件当時タマ拾いによつて軽機関銃やフイールド・ジヤケツなどが盗まれたり、あるいは毀損されたりするような具体的な心配があつ たものとは認められず、タマ拾いはもつぱら空薬きようを拾うことにのみ気を配つていたものである。それゆえにこそ被告人とともに警備の命を受けていたニク ル三等特技兵も軽機閲銃などの所在からやや離れた鞍部東寄りの個所で休憩しながら、判示のように空薬きようを特段の意味もなく、いわぱ退屈凌ぎに何度も投 擲していたものと思われる。そして被告人がタマ拾いに向けて発砲したのは判示の坂井なかだけに止まらない。その直前にも西峯の東側斜面から下りて来て薬き ようを拾つた判示
タマ拾いの一人小野関英治に対しても、突然同人の身辺に走り寄り、これに驚いて逃げる同人の背後からその身辺をねらつて判示と同 様の方法により空薬きようを発射した事実があり、このように、わざわざタマ拾いを招き寄せてはこれを追い払うが如きことは到底公務の執行とは考えられな い。しかも、空薬きようを手りゆう弾発射装置に挿入して空包を撃ち、これを発射するが如きことも武器を毀損する虞ある使用方法にして合衆国軍当局の許さな い用法であり、またみだりに近距離から人に向けて空砲を撃つことも禁止されているのであつて、本件は、軽機関銃などの警備の任務の遂行とはおよそかけはな れた主観的にも客観的にも何の関連もない全く被告人個人の一時の興味を満足させるための度を過ごした一つの悪戯としか考えられない。従つて本件が刑法第三 五条にいわゆる正当行為に該当する旨の弁護人の主張は採容の限りではない。
次に、日本国は前記行政協定第一七条1により同条の規定に従うことを条件として裁判権を有するところ、本件については、日本国の当局が合衆国の軍当局に 対して金井辰雄ら五名の検察官に対する供述調書を提示せず、同条6(a)の両国当局の犯罪の捜査の実施並びに証拠の収集および提出についての相互援助の規 定に違反して公訴を提起したものであるから、日本国は裁判権を有しないとの主張について判断するに、関係資料によれば、合衆国の軍当局が日本国の当局に対 し、右証拠資料の提出を要請したこともなく、また日本国の当局において必要と認め自発的に提出したこともなく、従つて合衆国の軍当局が日本国の当局からこ れら資料を受領していないことは明らかであるが、前記行政協定第一七条6(a)の規定の趣旨は、両国いずれの当局も他方の国の当局に対し当該事件の証拠資 料の一切をあげて提示しなければならないことを要求するものでなく、当該事件処理上必要と思料される範囲内の資料を提示すれば足るものと解するのが相当で あつて、弁護人主張の前記証拠資料が本件の処理に重大な影響を及ぼすほどの資料とも認められず、かりにそうでないとしても該資料の存在とその内容 については本件犯罪の捜査当時既に合衆国の軍当局において知りまたは知り得たものと認められるから、日本国の当局が合衆国軍当局に対し、これら証拠資料の 提出方の要請もないままにたまたま提示しなかつたところで、前記行政協定第一七条6(a)にいわゆる相互援助に何ら欠くるところはない。従つて、同主張も 理由がなく採容することはできない。 (法令の適用および犯情)
被告人の判示行為は、刑法第二〇五条第一項の傷害致死罪に該当するので、その所定刑期範囲内で処断すべきものである。
よつてその情状について見るに、まず、本件は、被告人が武器を不法な目的のために不正な用法で使用し、人命を失うに致らしめるという重大な結果を招いた ものであつて、必ずしも犯情軽くないものがある。しかしながら、本件の誘因として、これまで、関係当局の努力にもかかわらずタマ拾いの者が立入禁止の警告 を冒して演習中の演習場内に立ち入り、尊貴であるべき身命を、自ら危険な境地に挺してまで利欲のため、あえてタマ拾いに熱中する一方、一部のタマ拾いと一 部の米兵とが互いに節度を越えて狎れ合つたことな
どが考慮され、延いては本件のような悪ふざけによる不祥事の発生も予見できないことではないのである。本 件当日もまた、かかる状況のもとで演習が行われたもので、その参加将兵のなかに混入して無秩序に各自思い思いに行動するタマ拾いの側にも非難さるべき一半 の責は免れ難く、これを一兵卒に過ぎない思慮の未熟な被告人のみに、本件事故の全責任を負わせることは相当でない。また、本件演習に当り被告人が支給され た小銃がたまたま故障したため、副分隊長の某下士官からその携帯の小銃を借り受け、その小銃に通常分隊長や副分隊長のみが所持し、兵卒の所持しな い手りゆう弾発射装置が装着されたままであつたところから、この武器が被告人をして稚気を起こさせ、本件を偶発したものとも認められ、被告人がタマ拾いを 特に蔑視したとか、あるいは被告人が坂井なかの身体に命中するようにねらい射ちしたという証拠は何処にもないのであつて、被告人にとつて致死の結果はもと より、発射薬きようの命中ということがいかに意外な出来事であつたかは、本件発生直後の被告人の周章狼狽ぶりからも容易に推測することができるのである。 また合衆国の軍当局においても、坂井なかの遺族の将来を案じてその慰しやの方法を講じ、その承諾さえ得れぱ相当額の金員を直ちに交付できる用意を完了して いることが認められる。そして被告人自身も十分に前非を悔い、再犯の虞もないと思われるから、被告人の年令、性行、経歴、環境など諸般の情状を考慮すれ ぱ、被告人を懲役三年に処し、刑法第二五条第一項を適用して、この裁判確定の日から、四年間右刑の執行を猶予するのが相当である」 安保改定問題Ⅱ(岸信介内閣、警職法、勤評闘争) 1 ここでは、1958年を扱います。A級戦犯岸信介の時代です。アメリカ的に民主化路線にさまざまな妨害が始まりました。 日米安保に命を懸けるほどアメリカの忠実な首相が、アメリカの民主主義には理解が少ないことが気になりました。 2 1957(昭和32)年 2月25日、@56岸信介内閣が誕生しました。
1958(昭和33)年1月1日、日本は、国連安全保障理事会の非常任理事国に選出されました。
1月7日、米軍は、神奈川県に対して、日本人の基地従業員328人を解雇すると通告しました。
1月0日、琉球政府は、沖縄に教育基本法・教育委員会法・学校教育法・社会教育法を公布しました。これを教育4法といいます。沖縄にも、日本国民としての教育を明示しました。
1月12日、那覇市長選挙で、民主主義擁護連絡協議会の兼次佐一が、社大党候補を破り、当選しました。
1月17日、米軍は、羽田空港施設の返還を日本に通告しました。
1月20日、インドネシアと平和条約・賠償協定などを調印し、経済開発借款に関する公文を交換しました。その結果、12年間に2億2308万ドルを支払うことを約束しました。
1月29日、海上自衛隊の練習艦隊は、戦後初めて、真珠湾に入港しました。
1月31日、アメリカは、フロリダ州ケープ・カネベラルから、陸軍の中距離弾道ミサイルを使った人工衛星エクスプローラー1号の打ち上げに成功しました。 3 2月1日、歴史学者は、紀元節問題懇談会を発足させ、紀元節復活反対の声明を出しました。 2月4日、日印通商協定及び日印円借款協定に調印し、日本輸出入銀行が180億円を貸し付けることになりました。
2月10日、北海道で、戦争中、強制労働をさせられた中国人が13年の潜伏後、石狩郡の山中で発見されました。
2月11日、東京高裁は、昭電疑獄に関して、芦田元首相らに無罪を言い渡しました。 2月16日、民主主義擁護連絡協議会に参加の旧社大党員を中心に、沖縄社会党を結成しました。
2月19日、アメリカ国務省は、「国連軍は朝鮮半島から撤退しない」と言明しました。 2月27日、科学技術庁は、初の「科学技術白書」を発表しました。 4 3月5日、北京で、第4次日中民間貿易協定が調印されました。
3月12日、最高裁は、公務員法による一般職公務員の政治活動制限を合憲と判決しました。
3月13日、文部省は、越境入学抑制を各教委に通達しました。
3月14日、台湾の国民政府は、日中貿易協定に抗議し、日本と御通商会議中止を通告しました。
3月16日、第4回琉球立法院選挙が行われ、社大党9人、民主党7人、民連5人、無所属8人が当選しました。
3月18日、米国は、伊丹飛行場を返還しました。
3月19日、文部省は、小中学校の道徳教育実施要綱を各教委に通達しました。 3月27日、ソ連のブルガーニン首相が辞任しました。ソ連最高会議は共産党第1書記のフルシチョフを首相に指名しました。
3月28日、岸首相は、衆議院内閣委員会で、「在日米軍への攻撃は、日本への侵略である」と答弁しました。
3月31日、ソ連は、核実験の一方的中止を発表しました。 5 4月1日、駐台湾大使は、岸首相の親書を蒋介石総統に手渡して釈明しました。
4月1日、売春防止法を全面施行し、罰則規定を新設しました。その結果、全国3万9000軒・売春婦12万人が法的には無くなりました。 4月1日、教員の勤務評定が実施されました。
4月5日、防衛庁は、次期主力戦闘機にグラマンF11F-1Fの採用内定しました。 4月11日、京都府知事に蜷川虎三が当選しました。
4月15日、第4次日韓会談は、4年半ぶりに開始されました。
4月18日、自民党の岸信介は、社会党の鈴木茂三郎は、解散について会談し、不信任案上程・討論後採択せずに解散の方式で意見が一致しました。
4月23日、東京都教育委員会は、勤務評定案を可決しました。都教組は、勤務評定反対10割休暇闘争に突入しました。
4月25日、衆議院が解散しました。これを話し合い解散といいます。
4月30日 刑法・刑事訴訟法改正が公布され、凶器準備集合罪・斡旋収賄罪が新設されました。 6 5月1日、公立小中学校の学級定員を50人と定める法が公布されました。これが50人学級制です。
5月2日、長崎の中国切手展で、一青年が会場の中国国旗を引きずり降ろし、逮捕されました。これを長崎中国国旗事件といいます。
5月6日、東京地裁は、蒲田事件につき、都公安条例を違憲と判決しました。
5月9日、中国の陳毅外交部長は、長崎中国国旗事件に関し、これを放任した岸政権に対し、「岸政府は、中国敵視政策をとっている」と言明しました。
5月10日、中国は、長崎中国国旗事件に関し、日本政府の対応に抗議して、日中貿易の停止を通告しました。
5月13日、岸内閣は、閣議で、日中問題静観を確認しました。
5月22日、@28衆議院議員総選挙が行われました。その結果、自民党287人、社会党166人、共産党1人、無所属・諸派13人が当選しました。社会党は議席166人・得票率32.9%で、戦後の最高水準を記録しました。
5月23日、防衛庁設置法改正・自衛隊法改正が公布され、定員を1万9216人増員、1混成団新設、航空総隊・航空方面隊を編成することになりました。
5月24日、第3回アジア競技大会が、東京の国立競技場を中心に開催される。参加20ヵ国で、日本スポーツ界始まって以来最大の祭典となる。 7 6月1日、日本共産党は、党中央と対立した全学連共産党グループを除名しました。
6月2日、防衛庁は、国産地対空・空対空ミサイルを初実験しました。 6月5日、和歌山県教組は、勤務評定反対10割休暇闘争に突入しました。 6月8日、憲法問題研究会第1回会合が開かれ、代表に大内兵衛が就任しました。 6月10日、岸内閣が総辞職しました。
6月12日、@57第二次岸信介内閣が誕生しました。法相に愛知揆一、外相 に藤山愛一郎、蔵相佐藤栄作、文相に灘尾弘吉、厚相に橋本龍伍(橋本龍太郎元首相の父)、通産相に高碕達之助、労相に倉石忠雄、経済企画庁長官に三木武 夫、防衛庁長官に左藤義詮、国務大臣に池田勇人、官房長官に赤城宗徳、総理府総務長官に松野頼三らが就任しました。この結果、岸・河野・大野・佐藤の主流 4派で主要ポストを独占することになりました。自民党は、衆院の正副議長と16の常任委員長をすべて独占し、岸内閣の高姿勢が強調されました。
6月18日、公定歩合が戦後初めて引き下げられました。
6月20日、原子力研究所の東海研究所一号炉が50000キロワット時を記録しました。これは沸騰水型原子炉では世界最高記録です。
6月20日、原水爆禁止を訴える1000キロ平和行進が広島平和記念公園をスタートする。 6月26日、高知県教組は、勤務評定反対10割休暇闘争に突入しました。
6月30日、仙台高裁は、平事件の原判決を破棄して、騒乱罪を認めて、有罪判決を下しました。 8 7月7日、国鉄幹線調査会は、東海道新線の早期着工を答申しました。 7月16日、東京都教育委員会は、勤務評定反対10割休暇闘争に突入した指導教員284人を処分しました。
7月21日、太田薫が総評議長に選出されました。
7月21日、共産党大会が開かれ、「51年綱領」を廃止し、行動綱領と規約を採択しました。議長に野坂参三、書記長に官本顕治を選出しました。
7月30日、ブース高等弁務官は、沖縄の軍用地代一括払いの取止めを声明しました。 7月31日、文部省は、小中学校学習指導要領改定案を発表し、基準性を強化しました。 9 8月11日、官公労240万人が解散し、総評に加盟しました。
8月12日 全日空ダグラスDC3型旅客機が伊豆下田沖で墜落し、33人が死亡しました。
8月14日、自民党の河野一郎総務会長は、防衛庁長官の佐藤義詮にロッキードFlO4Cの次期戦闘機機種問題につき再検討を申入れました。
8月15日、総評が、教員の勤務評定に反対して、勤評反対・民主教育を守る国民大会を開催する。
8月17日、スイスから誘導弾エリコンが横浜に到着しましたが、労組は荷役を拒否しました。
8月22日、アメリカは、「10月以降1年間の核実験停止をする」と発表しました。 8月22日、衆議院決算委員会は、機種選定に関する不正を追及しました。 8月24日、誘導弾エリコンは、横須賀の自衛隊用岸壁から陸揚げされました。 8月25日、防衛庁は、機種正式決定を中止しました。
8月26日、首里高校が持ち帰った甲子園の土が植物防疫法に触れると、那覇港で海中に投棄されました。
8月28日、文部省は、週一時間の道徳教育を義務化と通達しました。 10 9月6日、文部省は、警官に守られて、道徳教育指導者講習会を強行開催しました。
9月7日、埼玉県ジョンソン基地の米兵は、小銃を暴発させ、西武電車に命中し、学生1人が死亡しました。
9月10日、防衛庁は、米国防総省に対して、空対空誘導弾サイドワインダー14発を発注しました。
9月11日、藤山愛一郎外相は、米国務長官グレスと会談し、安保条約改定に合意しました。
9月12日、下中弥三郎・上代タノの呼びかけで、14大学長は、勤評問題の斡旋に乗り出しました。
9月14日、文相の灘尾弘吉は、勤評問題の斡旋案を拒否しました。
9月15日、総評・日教組は、勤評反対第1次全国統一行動を行いました。勤評反対全国統一行動に90万人以上が参加しました。
9月17日、文部省は、小中学校の「学習指導頭領」を発表し、儀式での日章旗掲揚と「君が代」斉唱を強調しました。
9月25日、全国一斉に学力テストが実施され、248万人が受験しました。
9月30日、ソ連が核実験を再開しました。 11 10月4日、藤山外相は、マッカーサー米大使と日米安保改定交渉を開始しました。
10月4日、岸首相は、日米安保条約改定の第1回日米会談を開きました。 (1)賛成派は、アメリカの核の傘による日本の発展を主張しました。
(2)反対派は、アメリカのアジア戦力体制に巻き込まれる危険性を主張しました。 10月8日、岸内閣は、警察官職務執行法改正案を国会に提出しました。これを警職法といいます。内容は、大衆運動取締りのため、職務質問・所持品調べ・土地建物への立入りなど警官の権限を大幅に拡大強化するものでした。社会党は、即時撤回を主張しました。 10月9日、岸首相は、NBC放送のブラウン記者と会見し、「憲法第9条廃止の時」と言明しました。
10月11日、衆議院議長の星島二郎は、職権で警職法改正案を地方行政委員会に付託しました。
10月11日、警職法反対の社会党は、地方行政委員会室を占拠しました。
10月13日、社会党・総評を中心に65団体は、警職法改悪反対国民会議を結成し、5次にわたる全国統一行動を呼びかけました。「デートも邪魔する警職法」というスローガンが国民の共感を得て、「オイコラ」警察復活の危惧が広がりました。
10月15日、ラオスと経済・技術協力協定を調印し、2年間で10億円を供与することになりました。
10月27日、西ドイツ経済相が記者会見で、日本の低賃金は脅威であると述べる。 10月28日、日教組勤評闘争で、群馬県・高知県で10割休暇闘争に入りました。 10月31日、橋本忍作、フランキー堺主演のテレビドラマ「私は貝になりたい」が放送され、大反響を呼ぶ。 12 11月4日、政府・自民党は、警職法改正案の成立を目指して、衆議院本会議で、「会期延長30日」を抜き打ちで、強行採決しました。 11月7日、社会党は、会期延長の無効を主張して、院内より引き上げました。 11月13日、藤山外相は、「安保改定交渉は国会正常化まで延期」と言明し、交渉を中断しました。
11月13日、新聞協会は、「週刊明星」の皇太子妃内定記事は法同協定を無視したものと雑誌協会に抗議しました。
11月19日、中国外相の陳毅は、「日米安保条約改定に関し日本の中立を期待する」と声明しました。
11月22日、岸首相は、社会党の鈴木茂三郎委員長と会談し、警職法審議未了・衆議院自然休会で了解が成立しました。
11月27日、皇室会議が、日清製粉社長の正田英三郎の長女で、聖心女子大学卒業の正田美智子を皇太子妃とすることを承認しました。宮内庁は、皇太子明仁と日清製粉社長の長女である正田美智子と婚約を発表しました。 13 12月2日、ソ連は、安保改定問題に関し、日本に中立化政策を望むとの覚書を通告しました。
12月9日、神奈川県教育委員会と県教組は、自己反省の記録とする勤務評定の「神奈川方式」を決定しました。しかし、文部省は、これに反対しました。
12月10日、共産党除名の全学連幹部らは、共産主義者同盟を結成しました。 12月10日、自民党議員総会で、反主流は、執行部の責任追及と党人事刷新を要求しました。
12月11日、高知県立安芸高校の生徒会は、勤評闘争処分教師の処分撤回闘争に立ち上がりました。高知県教委は、勤評反対の校長を任命しました。
12月13日、全学連第13回臨時大会三役改選で、革命的共産主義者同盟が主導権を握りました。
12月18日、米は、大陸弾道弾(ICBM)の試射に成功しました。 12月27日、国民健康保険法が改正され、国民皆保険となりました。
12月27日、自民党の池田勇人・三木武夫・灘尾弘吉の反主流派3閣僚は、岸首相の強硬姿勢に反発し辞表を提出しました。
12月31日、自民党の池田勇人・三木武夫・灘尾弘吉の反主流派3閣僚は、辞任しました。 * この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。 勤評闘争と学力テスト 1 1957年は、私が高校1年の時です。記憶なのか、学習なのか、分かりません。しかし、教師になった動機
競争は、誰かが1位になれば、誰かが最下位になります。他人が提供した場所で、人は、上位をめざして、頑張ります。私は、そんな姿が嫌で、自然体で、勝てばいいし、負ければいいというスタンスです。他人が煽る競争には参加したくありません。 2 日本教職員組合(日教組)50万人は、総評の御三家といわれ、政権党にとっては、強大な組織でした。 1950年12月、第3次吉田内閣は、地方公務員法を成立させ、第40条で、地方公務員の勤務について定期的に成績評価を義務づけました。これを勤務評定といいます。しかし、教育という特殊性から客観的な勤務評価(勤評)は困難であり、実施されることはありませんでした。
1954年6月、第5次吉田内閣は、教育2法(「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する法律」・「教育公務員特例法の一部を改正する法律」)を成立させ、教員の政治活動を禁止しました。
1956年6月、第3次鳩山内閣は、警官隊500人を本会議場に出動させ、新教育委員会法(「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」)を成立させ、公選制の教育委員を
任命制にしました。
愛媛県の白石春樹知事は、早速、5人の教育委員を任命しました。
11月、知事によって任命された愛媛県教育委員会は、市町村教育委員会に対して、小中学校教職員の勤務評定書の提出を命じました。評価の方法は、校長が 教員の計画性・協調性・指導性などの項目を5段階で評定するというものです。校長を評価するのは、教育委員会です。教育委員を評価するのは知事です。こう して教育の中央集権化が始まったのです。
12月、県下767校で、教員の勤務評定書が全て提出されました。
愛媛に続いて、香川県でも勤務評定が実施されました。 3 教員の勤務評定が行われた結果、上司の意に沿わない先生は、給与・人事異動で差別されます。
1961年から、文部省は、「学習指導の改善の資料にする」という理由で、中学校2・3年生を対象に、全国一斉学力テストを実施しました。1962年か ら小学校・高等学校を対象に、抽出学力調査を行いました。文部省は、「全国一斉学カテストは基本的な事項について出題するのでテスト対策のドリルや補習授 業は必要ない」と説明しました。 香川県では、学力テストが公表された結果、全国でも下位に位置していました。そこで、学力テスト日本一を合言葉に、学力調査に合わせたカリキュラム編成や学校現場に宿題プリ ントやドリルなどが強要されました。反対する先生は、島の学校に強制配転させられました。物言えぬ状況の中、生徒の実態を無視した放課後の連日の補習授業が行われたり、県教委は学力テスト対策として教科研究会に先生を強制動員しました。
学力テスト前には、予習という名目で、テストの答えあわせが何回も行われました。テスト当日は、教師が正解を教えてまわったり、学習の遅れた生徒を強制 的に休ませたり、特殊学級にいれるなど、人為的な不正行為が公然と行われました。その結果、社会科の平均点が97点の学校も出てきました。香川県は学力テ ストに中学の部は4年連続、小学の部は3年連続で日本一に「輝き」ました。これをテストあって教育なしといいます。 同じ四国の愛媛県は、香川県に追いつき追い越せをスローガンに徹底した学力テスト対策を行いました。これを涙の愛媛といいます。そして、文部省高官が「愛媛は全国でトップの栄誉を勝ち得た。ひとえに教師みなさんの不断の努力のたまもの」と煽ったことで、全国の競争化が進みました。
このような弊害が表面化し、反対運動が高揚する中、1966年に学力テストは廃止されました。 4 これは香川県高松市にある中学校の記録です。香川県の中学校は4年連続で学力テスト日本一に輝き、この中学校は、全国でもトップクラスの成績でした。日本一の次は世界一の「イートン校」を目標にしたといいます。
毎日6時間の授業の後、2時間の補習をします。1日平均5時間ですから、週に30時間の授業をしました。教科書は空で読み上げたといいます。日が暮れるまで続く補習では、「テストに出るぞ」が口癖でした。過熱ぶりに疑問は感じても、迷っている暇はありませんでした。
年間30回を超すテストの中で、難易度の低い学テはむしろ印象が薄いといいます。「学テの準備なんて必要なかった。普段の授業からして、テストを念頭に置いていたんだから」。 5 ある人は、「中学2年の秋という学期半ば、国語の先生が着任した。家に帰ってその話をすると、その先生は、 学力テスト阻止闘争で処分を受け、裁判闘争に勝って10年ぶりに職場復帰を果たしたということを教えられた。教壇に戻った先生は、ひたすら授業に専念し た。教える技術は素晴らしかった」と体験談を語っています。
1961年~1962年にかけて、取調べを受けた教師は、2000人にのぼり、逮捕された先生は61人、起訴された先生は15人でした。
1976年、最高裁は、「学力テストは合憲・適法」と判決しました。 6 文科省は、2001年度から、小学生~高校生約100万人を対象に共通の学力テストを実施している。その理 由として「学習指導要領に沿った理解がどこまでできているか測定する」と説明しています。文科省はテストの目的を、競争させて順位をつけることではなく、 「その学年の児童・生徒がどれだけ、学習指導要領によって定められた学習内容を理解しているかのデータを得る」としています。
大学のセンターテストに体験済みですが、マーク方式では、マーク式に適した問題しか出題できません。受験雑誌では、大学の教授や教育専門家の指導・助言 より、予備校講師の発言が重視されています。ペーパーテストでは、「見える学力」は測れても、「見えにくい」学力は測れません。その結果、問題が「知識・ 理解」偏重し、授業改善や学力形成に役立たず、受験のテクニックだけが評価されます。 7 県全体の結果を公表している自治体は28で実施しています。
大分県では、平均点が優秀だった学校名を公表しました。小学校333校の内51校、中学校144校の内56校です。一般の人も、ホームページでも閲覧で きる念の入れようです。公表の目的を県教委は次のように説明しています。(1)学力向上に成果を出している学校名が出ることで、他の学校がその取り組みを 参考にしたり、情報交換を行ったりできる(2)各学校、各教職員が、学力向上へ向けて意欲的な取り組みを行うきっかけとなる(3)保護者、地域住民に、学 力向上への関心をもってもらう機会となる。(4)「学力向上のためには、学校だけでなく家庭の協力が必要。県内全体の機運を上げるためには、まずは現状を 知ってもらうことが必要と考え、校名公表に踏みきった」と説明する。県教組は「テストの結果で学校が評価され、教育現場が混乱することは明らか」と反対し ています。
2002年度から校名公表に踏みきった東京都荒川区教委の担当者は、「公表で各学校、行政、家庭、地域とが連携を取る環境を作ることが出来た。学校間の 差も以前より縮まっている」と成果を語っています。「学校別の達成率をホームページでも公表し、達成率が低かった項目についての改善プランを作成し、実践 している」と豪語しています。 8 どのように利用されているのでしょうか。
これは小学校6年生の担任の実践例です。昨年度の学力テストの結果をスクリーンで見
せて、「私が教えれば、成績がこのように向上する」と自慢し、自分について来れば「この1年間で、皆さんをうんと賢くします」と宣言します。つまり奴隷状態にさせるのです。点数が取れやすい科目を数値目標にします。私が奴隷状態にさせるというのは、本当に勉強の楽しさが分かれば、中学生になり、高校生になっても、勉強するものです。奴隷状態から解放された時に、真価が発揮されるのです。
岩手県教委は、宮城・和歌山・福岡の3県とともに実施した2005年度の統一学力テストの結果を公表しました。岩手県内の小学5年生は国語・社会・算 数・理科の全4教科とも4県でトップだったが、中学2年生は国語・理科がトップだったが、数学・英語は04年度に続き最下位でした。
岩手県教委は、「中学2年生は家庭学習の時間が全国平均より少なく、主な原因のひとつだろう」と分析し、今後は数学と英語の学力向上を目指し、教員の研修や少人数指導を行う教員を増やすなどの対策を取るとしています。 9 1961年に導入され、1965年に廃止になった学力テストの教訓は、学校を序列化し、過度の競争を行い、学校教育に行政が介入したことです。
現在、学力テストを利用して、学校格差を助長し、教師間の差別化を図り、A教諭・B教諭・C教諭などと選別し、それに対応する賃金格差を導入していると 聞きます。いずれ、時間の問題だと予想します。ただ、大屋映子氏が指摘するように「現在の教師は弱い」。40年前の教師は、自分が不利益を蒙っても、子供 たちのためには闘う教師でした。彼らの勇気ある告発が、廃止に追い込んだのです。
私は、勇気ある教師と接する世代の人間でした。 10 以下は、勇気ある教師と接した私の体験談です(1)。
進学用模擬テスト(業者模試)は、実施の1カ月ほど前に学校に送られてきます。ある時から、急にどんな傾向が出るか見たいという教師が増えました。職員 会議で、教科別の模試結果を公表するということがあとで分かりました。私の学校も進学校でしたが、旧制中学校の系列をひく進学校の成績より上回る結果もあ りました。後で分かったことですが、模試を前もって見て、「今までのおさらいをやろう」と言って、模試の問題を解き過ぎた結果でした。
2年次は日本史・世界史は必修で、社会科の模試は、3年から公表となりました。ある世界史の教師は急に厳しく指導して、3年の世界史選択希望者が2クラ スになりました。例年は世界史選択クラスは10クラスの内4クラスです。後で分かったことですが、勉強の意欲のある生徒には優しく、そうでない生徒には厳 しくして「お前は世界史ではついてこれん」などの悪罵を浴びせたということです。その結果、世界史の模試結果は、全国平均をかなり上回り、私の持つ日本史 は全国平均以下となりました。そんな背景を知らない同僚は、「世界史はすごいなー。誰が教えてるんかいな」と噂になったということです。 そんなことを知らない上司は、私をC教諭とするでしょう。私は、生徒に日本史の楽しさ、勉強の面白さを知ってもらえば、上司の評価はどうでもいいです。 馬車馬はいやです。
競争社会では、勝つ馬もあれば、負ける馬もあります。自分を壊し、家族を壊してまで、勝ち馬にはなりたくありません。
おかげで、私は定年後は、文化財審議委員の委嘱を受けたり、市の定期講座のパソコン指導員をしたり、学校の研修に招かれたり、忠臣蔵の講演などで、多忙な毎日を送っています。
上司が私を評価するなら、私にも上司を評価する権限を与えてほしいです!! 11 以下は、勇気ある教師と接した私の体験談です(2)。 私の勤めていた学校は、進学校です。
ある学年の国公立進学率や全体の進学率が際立っているので、今でも語り草になっています。しかし実情を知っているものからすると、素直の喜べません。
(1)入学式の時、「進学については、学校の指導に従う」という誓約書を書かせます。 (2)試合前の大切な全体練習の時に、レギュラーの何人かが欠席します。出席した生徒に聞くと、「補習を受けないと、推薦状を書いてもらえない」というのです。
(3)家の事情で家から通える私立大学希望者であっても、合格できる地方の国公立を組み合わせによって複数校受験させます。これが国公立進学率上昇のポイントです。 (4)浪人をさせないという方針なので、九州の南の方にある工業大学を専願推薦で受験させます。これが全体の進学率を上昇させるポイントです。その後、そ の大学から「3人も同時に退学したが、何かあったのでしょうか」という問い合わせがあり、その実態が浮かび上がったのです。
ゆめゆめ、数字の魔術には踊らされないようにしたいものです。
安保改定問題Ⅲ(岸信介内閣、皇太子昭仁親王の結婚式) 1 ここでは、1959年の岸信介首相が日米安保改定に一生懸命になる姿を追いました。 2 1959(昭和34)年1月12日、第二次岸信介改造内閣が発足しました。文相の灘尾弘吉の後任に橋本龍伍、厚相の橋本龍伍の後任に坂田道太、経済企画庁長官の三木武夫の後任に世耕弘一らが就任しました。
1月14日、皇太子昭仁親王は、正田美智子との間に、納采の儀を挙行しました。 1月19日、三井鉱山は、三鉱連に対して、6000人希望退職企業整備案を提示しました。三池を中心に連続ストが行われました。
1月24日、自民党第6回大会は、岸信介が松村謙三を破り、自民党総裁に再選されました。
1月30日、自民党は、宗教法人問題特別委員会を設置し、靖国神社国家保護の動きが活発化しました。 3 2月4日 国税庁は、日本一高い宅地を東京銀座四丁目の交差点角と発表しました。1坪156万円でした。
2月7日、文部省は、新学習指導要綱への移行措置を通達しました。
2月12日、藤山愛一郎外相は、韓国公使に対して、在日朝鮮人の北朝鮮への帰還を認める旨の通達を伝えました。
2月13日、韓国公使は、在日朝鮮人の北朝鮮への帰還決定に抗議しました。
2月17日、岸内閣は、米ファーストボストン社らと3000万ドルの外債発行契約に調印しました。これを戦後初の外債公募といいます。
2月18日、藤山愛一郎外相は、政府・自民党首脳との会談で、安保改定の藤山試案を発表しました。
2月19日、自民党は衆議院社会労働委員会で、社会党欠席のまま、最低賃金法案を可決しました。
2月24日、自民党の池田勇人は、月給二倍論を表明しました。
2月25日、自民党反主流派の池田派ら4派の外交問題研究会は、「安保改定は時期尚早」と意見が一致しました。 4 3月2日、カンボジアと経済技術協力協定に調印しました。その結果、賠償請求権放棄に対して、3年間に15億円の資材・役務を無償供与することにまりました。
3月9日、岸信介首相は、参議院予算委員会で、「ミサイル攻撃に対して、敵基地を攻撃することもありうる」と答弁しました。
3月9日、社会党訪中団の長浅沼稲次郎団長は、中国人民外交学会で、「米帝国主義は日中両国人民共同の敵」と挨拶しました。
3月12日、岸首相は、参議院予算委員会で、「防御用小型核兵器は合憲」と答弁しました。
3月15日、ルバング島の小野田寛郎少尉・小塚金七一等兵が捜査隊に発砲する事件がありました。
3月16日、皇太子結婚の日取りを正田家に伝えるための「告期の儀」が行われました。 3月19日、岸内閣は、「仮定の事態に備えて攻撃的兵器を持つことは憲法の趣旨でない」との統一見解を発表しました。
3月23日、学者・評論家・芸術家など86人は、日本国憲法の精神に反し、国際緊張を激化するおそれのある安保改定を危惧する声明を発表しました。
3月28日、社会党・総評・原水協など134団体は、日米安保条約改定阻止国民会議を結成しました。
3月28日、千鳥ケ淵戦没者墓苑が完成しました。
3月30日、東京地裁の伊達秋雄裁判長は、「米軍駐留は違憲、従って刑事特別法は無効、砂川事件は無罪」と判決しました。 5 4月8日、自民党7役会議は、「日米安保条約改定要綱・行政協定調整要綱」を決定しました。その内容は(1)米の日本防衛義務の明確化(2)条約地域を日本の施政権下に限定(3)10年の期限などです。
4月10日、皇太子昭仁親王と正田美智子の結婚式が挙行されました。祝賀パレードに53万人がつめかけ、TV視聴者は1500万人と推定されました。 4月13日、藤山外相は、アメリカ大使と改定交渉を再開しました。
4月15日、安保条約改定阻止国民会議は、日比谷公園で、初の中央総決起集会を開催
しました。
4月16日、国民年金法が公布されました。
4月23日、第4回統一地方選挙が行われ、北海道で12年間の社会党知事が敗れ、福岡で社会党知事が誕生しました。 6 5月1日 東京都の人口が902万1313人となり、ニューヨークに次いで世界第2位となりました。
5月3日、検察側は、砂川事件に関して、高裁と飛ばして、最高裁へ跳躍上告しました。 5月10日、皇太子の結婚式により、特赦・減刑・刑の執行免除・復権等が行われ、4万8738人がその恩恵を受けました。
5月13日、南ベトナムと賠償協定・借款協定と調印しました。その結果、賠償として5年間に3900万ドル、借款として3年間に750万ドル支払うことになりました。戦争被害の大きかった北ベトナムには賠償を行わず、問題を残すことになりました。 5月13日、日米安保条約に関して、日米交渉が再開されました。
5月15日、茨城県那珂湊沖で、漁船200隻が米艦を包囲し、爆撃訓練を阻止しました。
5月16日、大阪府教租委員長ら18人が勤評闘争で免職となりました。
5月18日、ブース高等弁務官は、琉球列島の刑法ならびに訴訟手続法典を公布しました。これを新集成刑法といいます。しかい反対運動が激化しました。
5月25日、戦後初の国産潜水艦「おやしお」が進水しました。 7 6月2日、第5回参議院選挙が行われ、自民党71人、社会党38人、緑風会6人、共産党1人、無所属・諸派11人が当選しました。創価学会6人が全員当選しました。
6月15日、国防会議は、次期主力戦闘機グラマンの内定を白紙還元しました。 6月18日、岸信介は、内閣を大幅に改造しました。文相の橋本龍伍の後任に松田竹千代、農相の三浦一雄の後任に福田赳夫、通産相の高碕達之助の後任に池 田勇人、運輸相の重宗雄三の後任に楢橋渡、労相の倉石忠雄の後任に松野頼三、行政管理庁長官の山口喜久一郎の後任に益谷秀次、防衛庁長官の伊能繁次郎の後 任に赤城宗徳、科学技術庁長官の高碕達之助の後任に中曽根康弘、官房長官の赤城宗徳の椎名悦三郎らが就任しました。この結果、池田派が主流派にまわり、河 野・大野両派反主流になりました。
6月30日、沖縄の石川市で、米軍機が宮守小学校に墜落し、死亡27人、重軽傷121人が出ました。 8 7月1日、琉球立法院は、主席公選制・原水爆基地化反対・日本復帰要請の決議案可決しました。
7月11日、岸首相は、欧州・中南米11カ国訪問に出発しました。
7月17日、大蔵省は、「好景気で一万円札の印刷追いつかず」と発表しました。 7月19日、社会党の西尾末広は、「安保条約改定阻止には、条約解消への具体的な対案が必要、安保阻止国民会議は改組せよ」と主張しました。
7月21日、経済白書が発表され、過去最高の景気で、岩戸景気と命名されました。 7月21日、自民党は、安保反対の立場をとり始めた日本原水協を批判し、補助金中止
と不参加を決めました。
7月22日 熊大医学部は、「水俣病の原因は有機水銀である」と結論付けました。 9 8月4日 教科書検定で、小学校社会科の三七パーセントが不合格。 8月7日、ブース高等弁務官は、新集成刑法を無期延期しました。
8月8日、次期主力戦闘機グラマン調査団団長の源田実空幕長が訪米しました。 8月10日、最高裁、松川事件有罪の原判決を事実誤認の疑いありとして破棄、差戻し。 8月13日、日本は、朝鮮赤十字代表と会談し、在日朝鮮人の北朝鮮帰国に関する協定に調印しました。
8月28日、三井鉱山が4580人の希望退職を募集しました。
8月29日、日本は、ハンガリーと国交回復に関する交換公文に調印しました。 10 9月1日、東京など24都県で勤評が提出されました。
9月1日、日本は、ルーマニアと国交回復に関する交換公文に調印しました。
9月8日、岸首相は、自民党7役会議で、「安保改定は絶対に実行する」との決意を表明しました。
9月11日、日本は、ブルガリアと国交回復に関する交換公文に調印しました。 9月12日、大蔵省は、ドル為替の自由化を実施しました。
9月13日、社会党第6回大会は、安保闘争を批判した西尾末広を、党規律違反として、統制委員会に付議する決議案を可決しました。
9月14日、ソ連のペナントを積んだソ連無人探査機「ルナ2号」が初の月面着陸に成功しました。
9月15日、ルシチョフは、月面着陸を土産に、訪米しました。ソ連の首相では史上初です。
9月15日、労働省は、総雇用者中、女性が3分の1を越えたと発表しました。 9月16日、社会党の西尾派は、再建同志会を結成しました。
9月24日、米軍の黒いジェット機(U2型機)が藤沢飛行場に不時着しました。 11 10月4日、ソ連は、月ロケット第3号を打ち上げ、人類が見たことのない月の裏側の撮影に成功し地球へ電送しました。
10月5日、沖縄の民主党など保守政党は、合同して、沖縄自由民主党を結成しました。 10月6日、厚生省の水俣食中毒部会は、水俣病有機水銀中毒説を中間報告しました。 10月12日、日本は、国連総会で、経済社会理事国に当選しました。
10月13日、東京地裁は、デモ規制の東京都公安条例に3度目の違憲判決を下しました。
10月15日、統制委員会は、左派だけで西尾末広をけん責処分にしました。 10月19日、国連「児童の権利に関する宣言」が可決されました。
10月21日、通産省は、新日本窒素に対し、水俣川への排水中止・浄化装置の完備を指示しました。
10月25日、社会党の西尾派は、安保条約の改定に対する見解の相違から離党しました。
10月26日、社会党の西尾派33人は、院内団体として社会クラブを結成しました。 10月26日、自民党両院議員総会は、新安保条約案を党議決定しました。
10月29日、岸内閣は、所得倍増計画を経済審議会に諮門しました。 12 11月2日、水俣病の原因が工場排水であったことを知った漁民1500人は、新日本窒素水俣工場に乱入して、警官隊と衝突しました。
11月6日、国防会議は、源田実調査団の報告に基づき、航空自衛隊の次期主力戦闘機にはロッキードF104改装型を採用と決定しました。
11月11日、通産相は、対ドル地域輸入制限180品目の自由化を決定しました。 11月12日、炭労・三鉱連は、三井鉱山三池鉱の指名解雇を拒否し、三池闘争が始まりました。
11月19日、総評第13回臨時大会は、安保体制打破闘争の方針と炭労争議の支援を決定しました。
11月25日、河上丈太郎派12人が離党しました。その結果、河上派は残留派と分裂しました。
11月26日、前日離党した河上丈太郎派の12人は、民社クラブを結成しました。 11月27日、安保改定阻止第8次統一行動で、国会請願のデモ隊2万人が国会構内に突入しました。
11月30日、社会クラブと民社クラブが中心となって、民主社会主義新党準備会を結成しました。 13 12月1日、ワシントンで、南極条約が調印され、日英米など12ヵ国が南極の非軍事利用を取り決めめました。
12月1日、藤山外相は、U2型機に関して、衆議院で、「気象観測の米軍機である」と答弁しました。
12月2日、衆議院議長の加藤鐐五郎は、自民・社会・社会クラブ・民社クラブの4派代表を招集して、国会周辺でも規制の立法化を提案しました。
12月4日、中国最高人民法廷は、元満州国皇帝の愛親覚羅溥儀の特赦放免を決定しました。
12月8日、三池炭坑労組じゃ、指名解雇反対の3万人デモを決行しました。
12月10日、新島村議会は、ミサイル試射場受入れ案を可決し、反対派村民が役場に乱入しました。
12月11日、三井鉱山三池鉱は、1277人に指名解雇通告しました。 12月14日、初の北朝鮮帰還者975人がソ連船で新潟から出港しました。
12月16日、最高裁は、砂川事件上告審で、原判決を破棄し、東京地裁に差し戻しました。
12月17日、新日本窒素会社は、熊本県漁連と補償調停案に調印しました。
12月21日、自民党は、国会審議権確保のための秩序維持法案を国会に提出しました。 12月24日、自民党は、衆議院で、国会周辺デモ規制法案を単独可決しましたが、参議院では継続審議となりました。
12月29日、選挙違反容疑の参議院議員鮎川義介父子が辞職しました。 12月30日、水俣病問題で、見舞金の契約が調印されました。
12月31日 日銀券発行残高、初めて1兆円を超え、1兆294億円に達しました。 * この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。 A級戦犯岸信介と総理大臣岸信介 1 戦前は、戦争を指導し、戦後まもなく、A級戦犯となり、釈放後は、総理大臣となったひとは、誰でしょうか。岸信介です。昭和の妖怪と言われました。
そのバイタリティには驚かされますが、どのような転向をしたのでしょうか。 2 1896(明治29)年、信介は、佐藤秀助(養子で、実家が岸家)の次男として生まれ、旧制中学3年生の時に、父の実家である岸家の養子となり、岸信介となりました。弟の栄作は、佐藤家を継いで、佐藤栄作となります。
1920年、岸信介は、東大法学部を卒業します。信介は、進歩的な美濃部達吉と対立した保守国家主義を信条とする上杉慎吉を中心とする七生社の学生メン バーでした。同期性には、憲法学者の我妻栄・社会党右派の三輪寿壮・三島由紀夫のちちである平岡梓らがいました。上杉慎吉から大学に残るよう誘われました が、農商務省に入りました。 1929年、児玉誉士夫は、上杉慎吉が主宰する「建国会」に入会し、保守国家主義者となりました。岸信介との結ぶつきがここから始まりました。
1936年、岸信介は、満州国国務院実業部総務司長となり、それが縁で、関東軍参謀長の東条英機や日産コンツェルンの鮎川義介らと懇意になりました。
1938年、児玉誉士夫は、外務省情報部の推薦を受け、海軍航空本部の嘱託に採用されました。これが児玉機関です。児玉機関は、コバルト・タングステ ン・ニッケル・ラジウムなをを買い上げて、海軍航空本部に納入して、莫大な資金を手にしました。この資金で、戦後の米軍や政界にも浸透していきました。
1941年、岸信介は、東条内閣の商工大臣に就任しました。 1942年、翼賛選挙で当選して、翼賛政治家となる。
1943年、商工省が軍需省に改組され、東条英機首相が軍需大臣を兼務したため、岸信介は軍需次官に格下げされ、両者の間に軋轢が生じました。
1944年、木戸幸一内大臣は、岡田啓介元首相・米内光政元首相ら海軍系の重臣と相談して、東条内閣の打倒を画策しました。東条首相は、内閣改造を行お うとしましたが、岡田元首相と連絡を取っていた岸信介が内閣総辞職を勧告しました。憲兵隊長が岸に辞職を迫りましたが、岸信介はがんとして聞かず、他の重 臣も入閣を拒否したので、東条内閣は総辞職しました。
1945年、岸信介は、戦犯として、A級戦犯容疑者として逮捕され、巣鴨拘置所に入れられました。
1948年、岸信介は、国家主義者の児玉誉士夫と共に、戦犯不起訴として、釈放されました。東条英機らA級戦犯7人が処刑された翌日でした。 3 どうして、釈放されたのでしょうか。中国大陸で、共産主義を標榜する毛沢東が、アメリカが支援する資本主義 を標榜する蒋介石に勝利することがほぼ確実となりました。そこで、アメリカは、日本を共産主義の砦とすることに方向転換し、この方向で利用できる日本の指 導者を物色しました。その中に岸信介がいたのです。
細川隆元の『隆元のわが宰相論』(対談集)を読むと、岸信介は「最初はもう出てこれるとは思わなかったんですけどね。そのうちだんだん、起訴するのは第 1回のものだけで、あとの第2回目以降の者は釈放するんだっていうような噂がでましたりね。・・・もしも出た場合においては、どう一生を過ごすかというこ とをつくづく考えた。要するに要するにわたくしどもは戦争中指導者の一人であったわけですから、日本を再び戦争に巻き込ませないような、本当に平和な日 本、そして明るい日本、みんなが本当に福祉を楽しめる日本というものは、民主政治の完成ということにあるんだ。そうして見ると、やはり占領下におけるいろ んな姿というものは、わたしども本来の姿とも思わんもんだから、政党のあり方についても、いろいろと考えておったわけだ。
そこで、いよいよ出てきたら、自分が獄中で考え、日本のこういうみじめな姿になったことについて、とにかくある種の指導者としての責任もあることである から、本当に日本を建て直すために、自分の余生がどれだけあるか知らんが、とにかく傾け尽くそうという決意で出てきたわけですわ」 4 敗戦から12年後、出獄してから8年後の首相になった岸信介は、日米安保条約に執念を燃やします。
これは、1959年1月27日に岸信介首相が衆議院で行った施政方針演説です。 「わが平和外交の目標は、人間の自由と尊厳を基調として国民の福祉を増進しようとする自由民主主義国家の理念と秩序の維持発展にあるのであります。国民 の一部に、わが外交の方向を中立主義に求むべきであるとする主張がありますが、このような政策は、わが国を孤立化し、ひいては、共産陣営に巻き込む結果を 招くこととなるのであります。いわんや、当初から、これを積極的に意図するもののありますことは、特に警戒を要するところであります。従って、わが国は、 このような中立主義をとらず、みずからの安全を保障するに当り、志を同じくする自由民主主義諸国と固く提携し、国際社会における信義を貫きたい考えであり ます。わが国が日米安全保障条約を締結したゆえんもここにあったのであります」 5 私は、ロッキード事件の時に登場した児玉誉士夫や小佐野賢治にびっくりしたものでした。
児玉誉士夫は、戦後、東久邇宮内閣の顧問となっています。
1945年10月、自由党が結成されました。この時、児玉誉士夫は、今のお金にして3750億円を資金に提供したといいます。
児玉誉士夫は、1958年からロッキード社の代理人として、岸信介らに働きかけていました。その結果、1959年には、国防会議は、源田実調査団の報告に基づき、航空自
衛隊の次期主力戦闘機にはロッキードF104改装型を採用と決定しました。
1972年には、児玉誉士夫は、田中角栄首相と懇意で、日本航空や全日本空輸の大株主である小佐野賢治を介して、田中首相に働きかけました。その結果、 全日空はすでに決定していたダグラス社のDC-10型旅客機の購入計画を破棄し、ロッキード社のL-1011トライスターに変更しました。
1982年に成立した中曽根康弘内閣の顧問には、瀬島龍三という大本営参謀もいます。 戦前の国家主義者が、戦後も連続していることの不思議です。 6 さらに、その系譜を調べてみました。
(1)東京裁判で絞首刑を宣告され、刑を執行された7人です。
板垣征四郎 ・木村兵太郎 ・土肥原賢二・東條英機・武藤章・松井石根・広田弘毅です (2)東京裁判で終身刑を宣告された人です。
賀屋興宣らです。賀屋興宣は、戦後の池田内閣の法相です。 (3)東京裁判で有期禁錮を宣告された人です。
重光葵 (7年。戦後に外相)・東郷茂徳 (20年。服役中に病死) (4)東京裁判を免れたA級戦犯です。
岸信介・児玉誉士夫・笹川良一・正力松太郎らです。
1948年12月24日、岸信介らA級戦犯19人が釈放されました。①岸信介は後の首相です。
1950年10月13日、石井光次郎・平野力三ら1万90人の公職追放が解除されました。石井光次郎は後の通産相・法相です。
11月8日、重光葵らA級戦犯の仮出所が発表されました。重光葵は後の外相です。 1951年6月20日、石橋湛山・三木武吉ら2958人の第1次追放解除がありました。②石橋湛山は後の首相です。
8月6日、鳩山一郎ら1万3904人の第2次追放解除がありました。③鳩山一郎は後の首相です。 7 細川隆元の『隆元のわが宰相論』(対談集)には、6月19日の夜中の零時に安保条約が自然発効する時の様子を次の様に話しています。
岸 各閣僚は、あなたが言ったように何処かへ消えてしまった。大蔵大臣の弟が訪ねてきて「兄さん、いよいよ最後だ。ここは一歩も動く場所じゃないし、いよいよとなれば二人で死にましょう」と言って……。
細川 それは秘史ですね。初めて岸さんの口から何います。
岸 わたしは、そのときの気持からいうとですよ、これは兄弟肉親のナニもあろうし、しかし同時に大蔵大臣、わたしが安保条約を成立せしめるのが国のためだという決意を持ってるのに対して、政治家としてそれをやらせようという気持と、両方だったろうと思うんですがね。
そして、あそこにウイスキーかブランデーがあったんでね、二人で一ばいやってネ…。
細川 そのときは大臣は誰もいないんですね。
岸 誰もいない(注・みんな便所へ行くとかなんとかいって、こそこそ官邸を逃げ出して行った)。
細川 あのときの本当の偽わらざる心境はどうだったんですか。
岸 わたしはいま言ったように、別にあわてませんし、別に死ぬことが怖いとも思わんし、どっかへ逃げようとも思わんし、それはもう二時間たちさえすれは、否が応でも成立するんだから、その間ここで頑張ってさえおりやアいいんだ。こういう心境だったんですよ。
細川 それから零時に、自然成立ときたときに、ちょつとデモ隊は、勢いがスッと砕けたんですね。 8 『隆元のわが宰相論』(対談集)で、細川隆元氏は岸内閣を次の様に描写しています。
「第二次岸内閣で、彼がみずから起用した藤山外相とともに日米安全保障条約の改定をあえてしたのは、この際日本は米国と手を握って世界の共産勢力と相対峠しなければならないという彼一流の考え方が、彼をして安保条約改定に走らせたといっても過言ではなかろう」
私は、戦前は共産主義の亡霊に怯えて天皇制軍国主義に命を懸け、戦後は共産主義の恐怖に慄いて日米同盟に腐心する人々がいることを改めて知りました。彼らには矛盾がないのです。
主義主張はどうであれ、右翼の共通点は、反左翼(共産主義・社会主義)であることです。そういえば、新しい歴史教科書を作る会・自由主義史観研究会や非弁活動で逮捕された西村慎吾氏までが一致している主張が理解できました。 9
吉田茂・岸信介閨閥図(■は政治家)
佐藤信彦
竹内綱
━
茂 ↓ ∥ ∥━ ∥ ∥
┏━ 健 一 (英文学者) ┃
∥
吉田健三 ・・ ・・茂 ┣━ 桜 子
┳ ━━━━ さわ ━∥━ ┃━ 吉田寛 ┃
╋━ 正 男 (学習院大教授)
━ ━━━洋子
∥━ 安倍晋太郎
安倍晋三 ┃┗ 佐藤栄作 ┃
┗ 佐藤茂世 ━ ━∥━ ┃┳ 岸信介 大久保利通 ━ 牧野伸顕 ━ 雪 子 ┣━ 江子
┗━ 和子
∥━━━ ┳ 麻生太郎
麻生太賀吉
┗ ━━━信子
∥
三笠宮寛仁親王
安保改定問題Ⅳ(新安保条約発効、東大生樺美智子の死) 1 1960年は、私が18歳の時です。1960年は、水俣病とか三池闘争もありました。
ここでは、安保改定問題を取り上げます。 2 1958(昭和33)年6月12日、@57第二次岸信介内閣が誕生しました。
1960(昭和35)年1月5日、三井三池労組は、1214人の解雇通告を一括返上しました。
1月6日、藤山愛一郎外相は、駐日アメリカ大使のマッカーサーとの間で、安保改定交渉が1年3カ月ぶりに妥結しました。
1月12日、岸内閣は、が436品目の自由化を決定しました。
1月16日、岸首相ら新安保調印全権団は、アメリカに出発しました。渡米を阻止しようとする全学連主流派学生700人は、羽田空港ビルに座り込み、警官隊と衝突しました。 1月18日、朝日新聞は、世論調査結果を発表しました。安保改定(是29%、非25%)、6月2日の政府の国会での安保審議の進め方(是12%、非58%)、6月3日岸内閣の存続(是12%、非58%)。
1月19日、ワシントンで、日米相互協力及び安全保障条約(新安保条約)、施設・区域・米軍の地位に関する(行政協定に代わる新協定)、事前協議に関する交換公文などが調印されました。
1月20日、岸首相は、アイゼンハワー大統領と会談して、大統領の訪日(6月20日頃)と皇太子夫妻の訪米(日米修好100年祭記念)とを決定しました。
1月23日、総評主流派の労働者同志会は、労働運動の前進のためにという新方針を発表しました。その内容は、経済闘争重視の日本的労働組合主義を提唱するものでした。 1月24日、民主社会党結成大会が開かれ、委員長に西尾末広、書記長に曽爾益を選出しました。民社党は、衆院40人・参院16人の勢力で、新安保条約には反対するが、安保条約の即時廃棄にも反対する考えを表明しました。
1月25日、三井鉱山は、三池鉱業所にロックアウトを実施しました。労組側は、全山で無期限ストに突入しました。
1月27日、ソ連は、対日覚書で新安保条約を非難し、「外国軍隊が撤退しない限り、歯舞・色丹は引き渡さない」と通告しました。
1月30日、緑風会は、参議院同志会と改称しました。 3 2月3日、大蔵省、渡航外貨制限の緩和、外国向け雑送金自由化など、為替自由化措置を実施。
2月5日、岸内閣は、ソ連の対日覚書に対して、「不当な内政干渉である」と反論しました。
2月8日、岸首相は、衆議院予算委員会で、政府統一見解として、「新安保の極東の範囲
は、フィリピン以北・日本周辺」と答弁しました。
2月10日、岸首相は、再度、衆議院予算委員会で、「北千島を含まず、金門・馬祖島は範囲内」と答弁しました。
2月13日、フランスがサハラで核実験し、第四の核保有国になりました。
2月19日、衆議院安保特別委員会で審議が開始され、社会党は、国会による条約修正権を主張し、修正権論争が続き、紛糾しました。
2月20日、東京株式市場ダウ平均が初の1000円台を突破しました。 2月23日、美智子皇太子妃が男児を出産し、浩宮徳仁親王と命名されました。 2月26日、新安保条約が審議入りしました。 4 3月1日、自民党の三木武夫・松村謙三と自民党の石井光次郎総務会長は、「極東の範囲に金門・馬祖島を入れるのは反対」と申し入れました。
3月6日、三池炭坑社宅で、会社側宣伝車が労組員を轢く事件が発生しました。 3月9日、三池労組は、スト破り勢力の台頭に非常事態を宣言しました。
3月10日、昭和天皇の第5皇女である清宮貴子内親王が島津久永と結婚しました。 3月15日、韓国で選挙が行われましたが、不正選挙の疑いが濃く、李承晩の独裁に対する不満が高まりました。
3月16日、韓国の李承晩が大統領に再選されました。 3月17日、三池炭鉱で、第2労組が組織されました。
3月19日、安保改定阻止1000万署名簿が国会に提出されました。
3月24日、社会党臨時大会は、委員長に浅沼稲次郎、書記長に江田三郎を選出しました。
3月25日、三池第1組合は、中労委決定の線で「強力な高姿勢をとる」ことを確認しました。
3月26日、三池第1組合の1500人のデモ隊が三池鉱業所本館に入りました。 3月28日、三井三池鉱業所は、第2組合だけにロックアウトを解除し、生産を再開しようとしましたが、第1組合がピケを張って阻止したため、乱闘・流血騒ぎとなりました。 3月29日、暴力団員は、ピケラインの第1組合員を襲撃し、第1組合の久保清を刺殺しました。
3月29日、建設省は、熊本県下の筌ダム建設予定地の測量を強行し、反対派住民は「蜂の巣城」に籠城しました。
3月31日、熊本県警は、久留米市の浜田組組長浜田常喜らを、久保清殺害犯として逮捕しました。 5 4月6日、三池闘争に斡旋工作をしてきた中労委の藤中委員長が、会社側に指名解雇を撤回することなどを骨子とする斡旋案を示し、会社は受諾する。 4月12日、東工大の清浦雷作教授は、水俣病は「魚の毒」と発表しました。窒素工場の水銀説を主張いている熊本大教授らは、ただちに反論しました。
4月15日、 安保改定阻止国民会議は、第15次統一行動を起こしました。
4月15日、第4次日韓前面会談が再開されましたが、韓国情勢のため停止状態となりました。
4月17日、炭労大会は、中労委の藤林委員長の斡旋案を拒否し、三鉱連(全国三井炭鉱労働組合連合会)脱退を表明しました。
4月18日、韓国で、李承晩大統領の退陣要求デモが行われました。
4月19日、韓国で、李承晩退陣要求の学生デモが暴動化し、警察が実弾で鎮圧し、ついに戒厳令が出されましたこれを4.19学生革命といいます。
4月20日、岸首相は、衆議院安保特別委員会で、「在日米軍への防衛義務は集団的自衛権ではなくて、個別的自衛権の発動である」と答弁しました。
4月20日、東大の教官有志374人が新安保反対声明を出しました。
4月20日、第2組合の253人が炭坑に強行入坑しました。これを阻止しようとした第1組合は、警官隊と衝突し、多数の負傷者が出ました。
4月21日、三池労組は、三鉱連を脱退し、炭労に直接加盟しました。 4月25日、韓国で、大学教授らが李承晩の退陣を要求してデモを行いました。 4月26日、韓国のソウルで、デモ隊が大統領官邸を包囲しました。 4月26日、全学連主流派は、国会周辺で警官隊と衝突しました。
4月27日、韓国の李承晩大統領が辞任しました。これを4月革命といいます。 4月28日、沖縄で、革新系団体は、沖縄県祖国復帰協議会を結成しました。
4月28日、韓国の李起鵬が当選を辞退して自殺しました。許政暫定内閣が誕生しました。 6 5月1日、アメリカのU2型偵察機は、ソ連国内のウラル上空でソ連のミサイルに撃墜されました。
5月3日、池田大作が創価学会会長に就任しました。
5月5日、ソ連は、米のU2型機を領空侵犯で撃墜と発表しました。
5月7日、アメリカは、「ソ連の領空を侵犯した米偵察機は、スパイ飛行であった」と認めました。
5月9日、社会党は、衆議院安保特別委員会で、米軍厚木基地の黒いジェット(U2型)機の任務など追及しました。
5月10日、アメリカの国務省は、「在日U2型機は情報活動を行っていない」と声明しました。
5月12日、第1組合のピケ隊2500人は、警官がにらみ合い、そこへ、応援に来た機動隊がデモ隊に突入して乱闘となり、170人の負傷者が出ました。
5月13日、全学連主流派1500人は、国会正門前で、総決起大会を開きました。 5月14日、安保阻止国民会議は、10万人の第2回国会請願デモを行いました。請願署名1350万人と発表されました。
5月15日、ソ連は、人工衛星船第1号の打ち上げに成功しました。
5月17日、三鉱連(全国三井炭鉱労働組合連合会)は、妥結調印を承認しました。
5月17日、富士重工は、初の純国産ジェット機の試験飛行に成功しました。
5月17日、自民党の清瀬衆議院議長と社会党の中村衆議院副議長が党籍を離脱しました。
5月17日、東西首脳会談がU2スパイ飛行事件のため流会となりました。
5月19日、自民党は、衆議院安保特別委員会で、質疑を打ち切り、強行採決を行い、議場が混乱しました。衆議院議長の清瀬一郎は、警官500人を導入し て、社会党議員の座り込みを排除し、本会議開会しました。野党・与党反主流派が欠席のまま、会期50日延長を議決しました。
5月20未明、新安保条約・協定を討論なしで、自民党単独で強行可決しました。以後国会は空転状態で、連日国会周辺にデモが繰り広げられました。
5月20日、社会党・民社党・共産党は、「安保質疑打切り・会期延長・新安保条約の各議決の無効、衆議院解散要求」などを声明しました。
5月20日、全学連主流派が首相官邸に突入し、警官隊と衝突しました。 5月20日、ソ連は、対日覚書で、U2型機の日本駐留を非難しました。
5月21日、東京都立大の竹内好教授は、安保強行採決に抗議して辞表を提出しました。 5月23日、全学連主流派は、首相官邸前で、警官隊と衝突し、双方に多数の負傷者が出ました。
5月24日、社会党の浅沼稲次郎委員長は、マッカーサー大使と会談し、アイゼンハワー大統領の訪日延期を申し入れました。この会談で、アメリカ帝国主義をめぐり議論となりました。
5月26日、参議院本会議で、自民党・参議院同志会だけで会期50日延長を議決しました。
5月26日、安保阻止国民会議は、第16次統一行動を起こし、17万人を越える空前のデモ隊が、国会周辺で、「安保批准阻止、岸内閣総辞職、国会解散」を叫びました。 5月26日、三池闘争で、第1組合員と第2組合員が乱闘となりました。 5月27日、自民党は、衆議院本会議を単独で再開しました。
5月28日、ソ連のフルシチョフ首相は、「スパイ米機の基地は報復攻撃」と警告しました。
5月28日、元日本兵2人は、グアム島で16年間隠れ過ごして、やっと帰国しました。 5月28日、岸首相は、首相官邸で内閣記者団と会見し、「声ある声」を批判し、「声なき声に耳を傾けるべきだ」と述べました。
5月28日、沖縄の教職員会などが中心になって、沖縄県祖国復帰協議会を結成しました。
5月28日、大統領を辞任した韓国の李承晩がハワイに亡命しました。 5月30日、労働省は、「三井三池闘争のピケは違法である」と警告しました。 5月30日、参議院同志会は、「国会の正常化まで一切の審議に応じない」と決定しまし
た。 7 6月1日、社会党は、代議士会で、議員総辞職の方針を決定し、全議員の辞表を浅沼委員長に預けました。
6月4日、「声なき声の会」のプラカードを掲げた300人の主婦・未組織の市民は、国会でもに参加しました。
6月4日、安保改定阻止第1次実力行使で、国労など交通部門で早朝スト、全国で総評・中立労組76単産460万人、学生・民主団体・中小企業者100万人が参加しました。 6月7日 東久迩稔彦、片山哲、石橋湛山の首相経験3者が、岸首相に即時退陣を求める勧告文を渡す。
6月8日、最高裁は、「衆議院の解散は高度の政治性をもち、その有効・無効の審査は司法裁判所の権限外である」と判決しました。
6月8日、参議院自民党は、単独で安保特別委員会を開き審議を強行しました。 6月10日、米大統領新聞係秘書のハガチ一が来日しましたが、羽田空港で、労働者・全学連反主流学生のデモ隊に乗用車を包囲され、米軍ヘリコプターで脱出しました。 6月12日、アイゼンハワー大統領が極東訪問に出発しました。
6月14日、三井工業所は、労組の三川鉱ホッパーの長期ピケに対抗し、運搬船の資材陸揚げを強行し、第1組合の三池艦隊と衝突しました。
6月15日、安保改定阻止第2次実力行使で、全国で111単産580万人が参加しました。安保阻止国民会議・全学連などが国会のデモ行進しました。右翼は、全学連反主流派・新劇人などのデモに殴り込み、60人が負傷しました。
6月15日19時、全学連主流派(反共産党系)は、国会突入をはかり、警官隊と衝突して、東大生の樺美智子が死亡しました。学生4000人は、国会構内 で抗議集会を行いました。それに対し、警官隊は、暴行のすえ未明までに学生など182人を逮捕し、負傷者1000人を越えました。
6月15日、ラジオ関東のアナウンサーは、警官隊に暴行を受けながら安保デモを報道しました。
6月15日、藤山外相は、マッカーサー大使と会談し、警備計画を伝えました。 6月16日0時18分、岸内閣は、臨時閣議を開き、自衛隊を出動させてまで米大統領を迎えるか否かなど議論しました。その結果、岸首相は、「大統領訪日延期要請」を決定しました。
6月16日、岸内閣は、アイゼンハワー大統領に訪日延期要請を伝え、マニラに滞在中のアイゼンハワー大統領も同意しました。
6月17日、最高裁は、砂川事件につき、「町長は知事の命令に従え」とした東京地裁判決を破棄し、裁判のやり直しを命じました。
6月17日、社会党顧問の河上丈太郎は、参院議員面会所で請願受け付け中、右翼少年に背中を切出しナイフで刺され、全治2週間の傷を負いました。
6月17日、東京の7新聞社は、「暴力を排し議会主義を守れ」との共同宣言を発表しま
した。地方紙多数も同調しました。
6月18日、岸内閣は、F104Jの日米共同生産に調印しました。
6月18日、安保阻止統一行動で、33万人が徹夜で国会を包囲し、「岸を倒せ」とフランス式デモを展開しました。
6月19日0時、衆議院通過後1カ月して、新安保条約・協定が自然成立しました。 6月20日、参議院は、安保関係国会法などを自民党の単独採決により抜き打ち可決しました。
6月23日、新安保条約批准書を交換し、発効しました。岸首相は、臨時閣議で退陣を表明しました。
6月24日、岸内閣は、貿易為替自由化計画の大綱を決定しました。その内容は、3年後の自由化率約80%を目標とするというものです。 8 7月1日、自治庁が自治省に昇格しました。
7月2日、安保阻止国民会議は、東京三宅坂で新安保不承認大会を開き、10万人が参加しました。
7月7日、福岡地裁は、三池三川鉱ホッパー付近のピケ排除の仮処分を決定しました。海上で大衝突が起きました。
7月7日、総評・炭労は、全国から2万人を動員し、ピケを強化して、緊張が激化しました。
7月14日、第1組合員は、ホッパー付近に溝を掘って、重油やマキを燃やす火のピケラインを作って抵抗しました。
7月14日、自民党大会で、官僚派の池田勇人は、決戦投票で石井光次郎を破り、総裁に就任しました。
7月14日、池田勇人就任祝賀会で、退陣を表明していた岸首相が右翼に刺されて負傷しました。
7月15日、岸信介内閣が総辞職しました。
7月16日 ソ連は、中国に派遣中のソ連人専門家1300人を1カ月以内に引き上げると通告しました。同時に、数百の契約を破棄して、設備供給を停止しました。 7月18日、衆議院で、池田勇人が首相に指名されました。
7月19日、@58第一次池田勇人内閣が誕生しました。外相に小坂善太郎、 蔵相に水田三喜男、厚相に中山マサ、通産相に石井光次郎、郵政相に鈴木善幸、労相に石田博英、建設相に橋本登美三郎、経済企画庁長官に迫水久常、防衛庁長 官に江崎真澄、官房長官に大平正芳らが就任しました。厚相の中山マサは、初の女性大臣として話題となりました。 池田首相は、高姿勢の岸首相の後継を意識して、低姿勢で、(1)寛容と忍耐(2)所得倍増・高度成長政策(3)人づくりを主張しました。
7月19日、中労委は、三池争議に異例の労使双方白紙委任による斡旋を申し入れました。
7月20日 最高裁は、東京都の公安条例の集会・デモ許可制に対して、合憲と判断を下しました。
7月20日 三池争議で中労委、労使双方に対し中労委への白紙委任による斡旋を提示、労組側、受諾。石田博英労相が中労委に職権斡旋を依頼する。炭労は受諾を解答するが、会社側は拒否する。
7月22日、警官隊と三池闘争を支援する全学連が衝突し、組合と学生213人、警官61人が重軽傷を負う。
7月25日、三井鉱山の会社側は、中労委申し入れを受諾しました。
7月29日 北富士演習場での演習中止を求め着弾地へ入る。山梨県忍野村の農民300人は、北富士演習場で、米軍・自衛隊の演習中止を要求し、10人が着弾地に座り込みました。 9 8月6日、東京地検は、「樺美智子は胸部圧迫による窒息死で損害致死の疑いはない」として不起訴処分を決定しました。
8月7日、池田首相は、減税・社会保障・公共投資を新政策の三本柱にすることを表明しました。
8月8日、池田内閣は、西イリアン駐留のオランダ空母の横浜寄港を許可しました。 8月10日、中労委は、三池争議の労使双方に、最終斡旋案を提示しました。 8月11日、インドネシアは、空母の寄港を許可した日本政府に抗議しました。 8月12日、第1組合員は、指名解雇を認めるような中労委斡旋案は呑めないと表明しました。
8月12日、韓国で、尹普善が大統領となりました。 8月13日、同和対策審議会が設置されました。
8月16日、炭労は、条件付きで中労委の斡旋案受諾を決定しました。
8月23日、韓国で、張勉が首相に就任しました。 10 9月5日、自民党は、高度成長・所得倍増などの新政策を発表しました。
9月5日、日本・北朝鮮両赤十字代表は、新潟で、在日朝鮮人帰還問題をめぐり会談を開始しました。
9月6日、炭労臨時大会は、中労委斡旋案で三池闘争の事態収拾をはかることを確認し、第1組合もこれに従うことを決定しました。
9月6日、小坂善太郎外相は、政府代表として、戦後初めて、韓国を訪問し、日韓共同声明を発表しました。
9月8日、池田内閣は、オランダに空母寄港延期を要請し、オランダ大使は遺憾の意を表明しました。
9月8日、新安保条約に基づき、外務省で、第1回日米安保協議委員会を開催しました。日本側は外相と防衛庁長官、アメリカ側は駐日大使・太平洋軍司令官が出席しました。 9月14日、産油五カ国は、石油輸出国機構を結成しました。これをOPECといいます。 9月22日、皇太子夫妻は、アイゼンハワー大統領の招きで訪米に出発しました。 11
10月1日、第9回国勢調査が行われる。総人口は9341万8501人。東京都は1000万人を突破する。
10月12日、社会党の浅沼稲次郎委員長(61歳)は、日比谷公会堂の3党首立会演説会で、17歳の右翼少年山口二矢に刺殺されました。
10月13日、国家公安委員長兼自治相の山崎巌が辞任しました。
10月13日、社会党臨時大会で、前日刺殺された浅沼委員長の代行に江田三郎を選出しました。
10月15日、文部省は、高等学校指導要領を改定しました。
10月19日、東京地裁は、「朝日訴訟」につき現行の生活保護水準は憲法25条に反しており、違憲と判決しました。
10月25日、第5次日韓会談の予備会談が開始されました。
10月27日、日本・北朝鮮両赤十字代表は、現行協定1年延期の合意書に調印しました。 12 11月1日、三井三池工業所(三池炭坑)労使は、ストとロックアウトを解除し、ここに、史上最大の三池争議 が妥結しました。総評は、この争議に6億4800万円と延べ29万5000人のピケを投入したことになります。ピケとはpicketのことで、「デモ隊、 見張りの兵隊、杭、見張り、デモ参加者」の意味です。
11月2日、浅沼委員長を刺殺した山口二矢は、収監中の練馬少年鑑別所の獄壁に「七生報国、天皇陛下万歳」と書いて、自殺しました。
11月8日、米大統領選挙で、民主党のJ・F・ケネディが当選しました。
11月20日、@29衆議院議員総選挙が行われ、自民党296人、社会党145人、民社党17人、共産党3人が当選しました。西尾末広が率いる民主党が惨敗しました。 11月28日、大日本受国党員は、深沢七郎の『風流無譚』を掲載した「中央公論」に対して、「皇室を悔辱している」と同社に抗議しました。
11月29日、宮内庁は、深沢七郎の『風流無譚』に抗議しました。 13 12月1日、三池闘争が終了、労組員が全面就労する。
12月1日、中央公論社は、深沢七郎の『風流無譚』に関して、宮内庁に陳謝しました。 12月8日、@59第二次池田勇人内閣が誕生しました。法相に植木庚子郎、 外相に小坂善太郎、蔵相に水田三喜男、厚相に古井喜実、通産相に椎名悦三郎、労相に石田博英、建設相に中村梅吉、国家公安委員長に安井謙、経済企画庁長官 に迫水久常、防衛庁長官に西村直巳、近畿圏整備委員長に河野一郎、官房長官に大平正芳らが就任しました。 12月19日、池田首相は、参議院で、「中国承認につながる恐れがあり、対中貿易は政府間協定以外で行う」と言明しました。
12月20日、南ベトナムで民族解放戦線が結成されました。
12月26日、総理府統計局は、家計収支の調査結果を発表し、そこでは、全国の月平均生活費は2万5444円となっていました。
12月27日、池田内閣は、閣議で、「国民所得倍増計画」を決定しました。
12月29日、琉球の米民政府は、祝日の日の丸掲揚を拒否しました。
12月29日、大蔵省は、来年度(1961年度の926億円の減税案を決定しました。 * この項は、『近代日本総合年表』などを参考にしました。 安保闘争と声なき声と樺美智子 1 岸信介首相は、国会を取り囲むデモ隊について、記者会見で、「国民のすべてではない。国民の『声なき声』に 私は耳を傾ける。今日も後楽園球場は満員だったそうじゃないか」と述べました。戦前は天皇に命を捧げ、戦後はアメリカに忠誠を誓う日本のリーダーに、非常 な違和感を思えました。
他方、青春を政治闘争に捧げた女子大生の死を知りました。民俗学に関心を持って、農村を駆け巡って調査活動に専念していた私には、遠い世界の出来事でしたが、確実な情報だけは得たいと必死だったことを覚えています。
先日(2006年6月11日)、NHKのTVで、額賀福志郎防衛庁長官が面白い発言をしていました。日米安保条約を危惧する人々の前で、「日本には憲法 9条があって、東南アジアの人々からは日本は侵略しない国だと思われている。だから、日米安保条約を強化しても大丈夫である」と発言しました。
憲法9条と日米安保がセットであるというのです。憲法9条の改正はないのでしょうか。 2 1960(昭和35)年6月23日に発効した改定日米安保条約です。1952年4月28日に発効した旧安保条約に対して、新安保条約ともいいます。 「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約
日本国及びアメリカ合衆国は、両国の間に伝統的に存在する平和及び友好の関係を強化し、並びに民主主義の諸原則、個人の自由及び法の支配を擁護すること を希望し、また、両国の間の一層緊密な経済的協力を促進し、並びにそれぞれの国における経済的な安定及び福祉の条件を助長することを希望し、国際連合憲章 の目的及び原則に対する信念並びにすべての国民及びすべての政府とともに平和のうちに生きようとする願望を再確認し、両国が国際連合憲章に定める個別的ま たは集団的自衛の固有の権利を有しているを確認し、両国が極東における国際の平和及び安全の維持に共通の関心を有することを考慮し、相互協力及び安全保障 条約を締結することを決意し、よって次のとおり協定する。 第一条(平和の維持のための努力)
締約国は、国際連合憲章に定めるところに従い、それぞれが関係することのある国際紛争を平和的手段によつて国際の平和及び安全並びに正義を危うくしない ように解決し、並びにそれぞれの国際関係において、武力による威嚇又は武器の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合 の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎むことを約束する。
締約国は、他の平和愛好国と共同して、国際の平和及び安全を維持する国際連合の任務が一層効果的に遂行されるように国際連合を強化することに努力する。 第二条(経済的協力の促進)
締約国は、その自由な諸制度を強化することにより、これらの制度の基礎をなす原則の理
解を促進することにより、並びに安定及び福祉の条件を助長することに よつて、平和的かつ友好的な国際関係の一層の発展に貢献する。締約国は、その国際経済政策におけるくい違いを除くことに努め、また、両国の間の経済的協力 を促進する。 第三条(自衛力の維持発展)
締約国は、個別的に及び相互に協力して、持続的かつ効果的な自助及び相互援助により、武力攻撃に抵抗するそれぞれの能力を、憲法上の規定に従うことを条件として、維持し発展させる。
第四条(臨時協議)
締約国は、この条約の実施に関して随時協議し、また、日本国の安全又は極東における国際の平和及び安全に対する脅威が生じたときはいつでも、いずれか一方の締約国の要請により協議する。 第五条(共同防衛)
各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。
前記の武力攻撃及びその結果として執った全ての措置は、国際連合憲章第五十一条の規定に従つて直ちに国際連合安全保障理事会に報告しなければならない。 その措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全を回復し維持するために必要な措置を執つたときは、終止しなければならない。 第六条(基地の許与)
日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持の寄与するため、アメリカ合州国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。
前記の施設及び区域の使用並びに日本国における合州国軍隊の地位は、千九百五十二年二月二十八日に東京で署名された日本国とアメリカ合州国との間の安全保障条約第三条に基づく行政協定(改正を含む。)に代わる別個の協定及び合意される他の取極により規律される。
第七条(国連憲章との関係)
この条約は、国際連合憲章に基づく締約国の権利及び義務又は国際の平和及び安全を維持する国際連合の責任に対しては、どのような影響を及ぼすものではなく、また、及ぼすものとして解釈してはならない。 第八条(批准)
この条約は、日本国及びアメリカ合州国により各自の憲法上の手続に従つて批准されなければならない。この条約は、両国が東京で批准書を交換した日に効力を生ずる。 第九条(旧条約の失効)
千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国とアメリカ合州国
との間の安全保障条約は、この条約の効力発生のときに効力を失う。 第十条(条約の終了)
この条約は、日本区域における国際の平和及び安全の維持のため十分な定めをする国際連合の措置が効力を生じたと日本国政府及びアメリカ合州国政府が認めるときまで効力を有する。
もつとも、この条約が十年間効力を存続した後は、いずれの締約国も、他方の締約国に対しこの条約を終了させる意志を通告することができ、その場合には、この条約は、そのような通告が行われた後一年で終了する。
以上の証拠として、下名の全権委員は、この条約に署名した。
千九百六十年一月十九日にワシントンで、ひとしく正文である日本語及び英語により本書二通を作成した。
千九百五十一年九月八日にサンフランシスコ市で、日本語及び英語により、本書二通を作成した」 3 私の手元に『人しれず微笑まん 樺美智子遺稿集』(三一新書)という本があります。1979年に発売されて いますから、私の37歳の時に購入したことになります。編者は樺美智子の母である樺光子となっています。この本は、1960(昭和35)年6月15日の安 保闘争に参加し、国会に突入して、死亡した東大生の遺稿集です。1960年というと私が18歳の時です。新聞・TVで報道されていたので、実体験の記憶に 違いありません。
樺美智子は、父親が中央大学教授の樺俊雄で、兵庫県の神戸高等学校を卒業して、東大文科に入学しました。日本共産党が議会闘争に転換したことで、それを 不満に思った共産党員の学生らは、共産主義者同盟(ブント)を結成し、樺美智子は、そのメンバーで、文学部学友会副委員長でした。 4 1960(昭和35)年1月20日、岸首相は、アイゼンハワー大統領と会談して、「大統領の訪日を6月20日頃」と約束しました
5月19日23時48分、衆議院の清瀬一郎議長は、警察官500人に守られながら、会期延長を宣言しました。
5月20日0時6分、自民党は、単独で、新安保条約を強行採決しました。これで、1カ月後の6月20日には自然発効することになりました。なぜ6月20 日にこだわったのかというと、1月に岸首相がアイゼンハワー大統領に来日を約束したのが6月20日だったことが分かります。
6月15日、アイゼンハワーとの約束を守るために、日本での手続を強引に進める岸首相の手法に、私も含め当時の国民は激しく反発したものです。国会を包 囲していた学生7000人のうち1500人は、衆議院の南通用門から国会に突入し、警官隊と衝突し、樺美智子(22歳)が死亡しました。
樺美智子と国会に突入した学生は、次の様に証言しています。
「ぼくらは警官隊の群に向かって前進した。警官隊もこっちへ進んできた。やがて、正面からぶつかった。ぼくらの武器は、スクラムだけなのに、警棒をめ ちゃくちゃにふるっ
た。樺さんは髪を乱しながら頭を下げた。ぼくらも頭を縮めた。うしろからデモ隊が押して来て、ものすごいもみ合いになり、彼女は両方か ら押されて動けなくなったところを、警棒の一撃を浴び、悲鳴を上げて倒れた。その上に学生が何人か折り重なって倒れ、さらに警察官が殺到して、それっき り、とうとう起き上がれなかったのだ。やっと彼女を抱き上げたときは、倒れてから5分くらいもたっていた。血とドロにまみれた両手、両足はだらんと下がっ たまま、仮診療所に寝かせたときには、もう一言も発しなかった」(『女性自身』)
現場を取材していた記者は、次の様に証言しています。
「向かって右側が4機動(警視庁第4機動隊)、左側が7方警(警視庁第7方面警察本部)、学生たちの先頭は門の内側10メートルくらいのところまで突き 進んだ。警官隊はズルズルと後退、しばらくのあいだ奇妙な隙間(30メートル)ができて警官と学生が対立した。このとき、左手を受け持つ7方警はおじけず いたかのように、“敵”を前にして50メートルほど下がった。このときだった。4機動の3~4人が『さがる奴があるか』『突っ込め』『方警のバカヤロ-』 と口々にどなりながら突進した。“泣く子もだまる4機動”と異名をとる彼らは確かに“精鋭部隊”なのだ。これが、ダイナマイトの導火線となった。『わあ- つ』と喚声をあげて“突撃”に移ったこの数人に、つられたようにほかの隊員が、そして方警隊が続いた。あとは警棒の雨。「やっちちまえ」。キチガイじみ た、こんな怒声まで飛んで警棒の雨が瞬く間に血の雨となった」(読売新聞)
8月6日、東京地検は、慶応大学の中館久平教授の所見にもとづいて、「樺美智子は胸部圧迫による窒息死で損害致死の疑いはない」として不起訴処分を決定しました。 5 多磨霊園にある樺美智子の墓碑には、彼女が1956年に書いたといわれる「最後に」の詩が刻まれています。
誰かが私を笑っている 向うでも こっちでも 私をあざ笑っている でもかまわないさ 私は自分の道を行く 笑っている連中もやはり
各々の道を行くだろう よく云うじゃないか 「最後に笑うものが最もよく笑うものだ」と
でも私は いつまでも笑わないだろう いつまでも笑えないだろう それでいいのだ ただ許されるものなら 最後に 人知れずほほえみたいものだ
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